ちょっとだけ、聞いてくださいね。
先日、稽古場の露地に水を打っていたときのことです。梅雨前の乾いた飛び石に柄杓でひと筋、水が走る。その濡れ色の加減を見ながら、西村はふと手が止まりました。「この石にはあと何杯」と、いつの間にか数えていた自分に気づいたということ。
茶道の稽古では、点前の手順を記録し、炭の置き方や湯の温度を言葉にして残す場面が少なくありません。西村自身、大学で庭園史を学んでいた頃から「測ること」「書き留めること」を大切にしてきました。寸法を測り、石の配置を図面に起こし、制約の中に設計の意図を読み解く——その訓練があったからこそ、今の仕事がある。それは確かなことです。
けれど、やがて気づかされるのは、記録に頼りすぎると身体が覚えていたはずの感覚が薄れてゆく瞬間があるということ。露地の水打ちは本来、石の渇きや空気の湿りを肌で感じ取りながら加減するもの。数値に置き換えた途端、その場との対話が途切れてしまうのかもしれませんね。
師匠からかつて言われた言葉があります。「測ってもええけど、測らんでもできるようにならんと」。断定せず、けれど芯のある言い方でした。記録は稽古を支える杖のようなもので、やがてその杖なしで歩ける日が来ることを前提にしている。師弟の間で受け渡されるのは、知識よりもむしろ「手放すための順序」なのだと、最近になって西村はようやくそこに到達した気がしています。
庭の話に戻しますと、露地というのは茶室へ至るまでの心の準備の場です。飛び石の間隔、植栽の高さ、苔の湿り——すべてが「測れる」要素でありながら、それらが調和しているかどうかは、最後には歩く人の呼吸でしか確かめられません。設計図だけでは庭にならないし、感覚だけでも庭は保てない。記録と直感の往き来の中でこそ、場は育ってゆくのだと思います。
稽古を重ねるほどに、自分がまだ途中であることの重要性が浮き彫りになった——そんな感触を、この梅雨入り前の静かな露地で受け取りました。測ることを手放すのではなく、測らなくても手が動く瞬間を待つ。その待ち方そのものが、もしかすると成長と呼ばれるものなのかもしれませんね。
→ プロフィール / 他チャネルを見る

コメント