ちょっとだけ、聞いてくださいね。
梅雨の名残がまだ肌に触れる朝、庭の半夏生が白く色づいているのを見つけました。緑の葉が自ら白へと変わっていくあの姿は、何かを足すのではなく、色を手放すことで人の目を惹くということ。西村はしばらくそこに立ったまま、ある問いを抱えていました。
——「選ばない」ことは、本当に引き算なのだろうか。
着物の色合わせを相談されるとき、西村がまず訊ねるのは「どの色を着たいですか」ではありません。「今日、纏いたくない気分の色はありますか」という問いから始めることが多いのです。やがて、手放した色の輪郭が浮かび上がると、残った色のあいだに静かな調和が生まれる。帯揚げや帯締めの一点に差す色も、周囲を削ったからこそ息づくのかもしれませんね。
茶事の場にも同じ呼吸があります。濃茶のあとの薄茶、その間に流れる沈黙。亭主が言葉を重ねすぎず、客もまた問いを控える瞬間に、釜の湯が沸く松風の音だけが座敷を満たす。師匠がかつて「道具を一つ減らせたとき、席の空気が一段深うなる」と仰ったことがありました。あの言葉は、設計の現場でも繰り返し西村のなかに戻ってきます。
庭の話をすれば、さらにわかりやすいかもしれません。石を置くとき、職人は何十もの候補から「この一石」を選ぶのではなく、据えてみては退け、退けては眺め、やがて残るべき石だけが居場所を見つける。余白とは、何もない空間ではなく、選ばなかったものたちの気配が漂う場のことだと、西村は庭園史の講義で学びました。
引き算の美学、という言い方はよく耳にします。けれど断定せず、もう少しだけ考えてみたいのです。引くという行為には、まず「在る」ことへの深い理解が要る。着物の色を一色減らすためには、その色が持つ季節感や格の記録が身体のどこかに残っていなければならない。茶道具を一つ省くためには、その道具がもたらす対話の可能性をいったん受けとめる必要がある。
つまり引き算とは、足し算を知り尽くした先にしか到達できない態度なのだということ。
制約のなかで何を残すかを問い続ける——それは着物でも、茶の湯でも、庭でも、そしておそらく日々の暮らしのなかでも、静かに繰り返されている営みなのかもしれませんね。半夏生の白が目に残る季節に、そんなことを思っています。
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