六月の庭に出ると、苔の上を雨粒が滑る音がする。あの音には厚みがないのに、耳に残り続ける。西村はずっと、その不思議に惹かれてきたように思います。
ちょっとだけ、聞いてくださいね。
先日、稽古で使った平茶碗のことです。夏に向かう季節、茶碗は浅く広いものへと移る。手に取ったとき、あまりの薄さに息を呑んだ。けれど口元に運ぶと、その薄さの奥にじんわりとした土の温度が伝わってきた。削ぎ落とされた厚みの分だけ、指先と唇が茶碗と直に対話しているような感覚…ですね。
着物にも同じことが起きる、と西村紗弥が気づいたのは単衣の季節でした。袷から単衣へ替わると、布は一枚になる。物理的に薄くなる。けれど身体に纏ったとき、生地の織りや染めの奥行きがかえって際立つということに気づく。裏地という「支え」を手放した分、一枚の布が持つ密度がそのまま肌に届くのです。
祖母がよく言うていました。「ようけ重ねたら安心するけど、ほんまに信用できるもんは一枚で立つんえ」と。うーうー、と頷きながら聞いていた幼い頃の自分は、その意味をまだ掴めていなかった。
茶道具も着物も、引き算の先にある本質を問うている。茶杓の削りが一筋変われば、景色は一変する。帯揚げの色をひとつ抜けば、着姿全体の空気が澄む。足すことで埋められる余白を、あえて残しておく。その制約の中でこそ、道具や布が持つ固有の温度が立ち上がってくる…かもしれませんね。
ただ、削ぎ落とすことは我慢とは違います。選び抜いた一つを信じる、という静かな覚悟に近い。西村自身、まだその覚悟が揺らぐ日もある。棚の上に「念のため」と置いた帯締めを結局使わなかった朝、ああこれは要らなかったのだと身体が教えてくれる。
厚さではなく、薄さの中にこそ密度は宿る。それは茶室の空間にも、庭の余白にも、一枚の単衣にも通じる問いへと収束していった。梅雨の湿った空気の中で、指先に残る平茶碗のあの温度を、もう少しだけ味わっていたいと思うのです。
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