梅雨の走りのような湿った風が露地の苔を濡らして、飛び石のひとつひとつが深い緑を帯びる季節になりました。稽古場へ向かう前、蹲踞(つくばい)のそばでしゃがんで水の音を聞く時間が、わたしにとっては一番静かな「始まり」です。
ちょっとだけ、聞いてくださいね。
先日、お稽古のあとに生徒さんからこんな言葉をいただきました。「先生は、教えているときより黙ってお点前をしているときのほうが、ずっと多くのことを伝えてくれている気がします」と。正直に申しますと、少しどきっとしました。嬉しさと、それからかすかな戒めのような感覚と、両方が胸に落ちてきたのです。
茶の湯のお稽古では、言葉で手順を説明する場面はもちろんあります。柄杓の引き方、帛紗のさばき方、畳の目を何目進むか——そうした「型」は確かに口伝えで渡していくものです。けれど、わたし自身が師匠のそばで一番深く受け取ったものは、説明の言葉ではありませんでした。釜の湯が沸く音を聴きながら、師匠がただ静かに座っている、その背筋のかたち。茶碗を持ち上げるときの、指先にほんのわずかだけ力が入る瞬間の呼吸。言葉にすれば「所作が美しい」の一言で終わってしまうものの奥に、何十年という時間をかけて身体に沁みた”間”がありました。
これは庭にも通じることかもしれませんね。露地の設計を学んでいた大学時代、恩師がよくおっしゃっていたのは「庭は説明するものやない、歩かせるものや」という言葉でした。飛び石の間隔、枝折戸の高さ、つくばいまでの視線の誘導——すべては身体がそこを通ることで初めて意味を持つ。図面の上ではわからない、足の裏の記憶のようなものが、庭という空間には埋め込まれています。
「教えよう」と構えた瞬間、伝える側の意識は相手ではなく自分の言葉に向いてしまう。けれど、ただそこに在って、自分の手を動かし、呼吸を整え、季節の空気ごと共有する——その沈黙の時間にこそ、身体から身体へ渡っていくものがあるように思うのです。
もちろん、これは「言葉はいらない」という話ではありません。言葉は道しるべとして大切なものです。ただ、道しるべだけでは歩けないように、身体の継承には「一緒にその場に居る」という、とても素朴で、とても贅沢な時間が要るのだと、稽古を重ねるほどに感じます。
露地の苔が雨を吸って、明日にはまた少し色を変えているでしょう。急がず、ただそこに在ること。わたし自身、まだまだ学びの途中ですけれど、その問いをこれからも静かに抱えていきたいと思っています。
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