先日、古本市の準備をしているとき、ふと手に取った本の奥付に「第一刷」と書かれていて、それだけで少し心が動いた自分に気づいた。中身は同じなのに、初版であることに何かしらの”重み”を感じてしまう。……いや、でも、その重みの正体ってなんだろう。
偽造品(counterfeiting)の話をすると、多くの人はブランドバッグや紙幣の偽造を思い浮かべると思う。けれど、偽造が問題になるという事実そのものが、私たちの「価値判断」の構造をかなり鮮明に映し出しているように思える。つまり、偽造品が存在するためには、まず「本物」という概念が社会的に共有されていなければならない。そしてその「本物」の基準は、時代や文化によって驚くほど揺れている。
たとえば、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、オリジナルに宿る「アウラ(一回性の雰囲気)」が複製によって失われると論じた。この議論はよく知られているけれど、逆に考えると、アウラという概念自体が近代的な芸術観の産物でもある。中世ヨーロッパの写本文化や、日本の書道における臨書の伝統では、「模倣」は学びであり敬意であって、偽造とは区別されていた。何を「偽物」と呼ぶかは、その社会が何に正統性を置くかの裏返しだと思う。
もう少し身近な話をすると、最近はAI生成のイラストや文章が「偽造」的に受け取られる場面がある。人間が描いたものと見分けがつかない画像に対して感じる違和感——あれは品質の問題ではなく、「誰が作ったか」という来歴(provenance)に私たちが価値を置いている証拠ではないだろうか。ジャン・ボードリヤールが『シミュラークルとシミュレーション』で描いた、オリジナルなき複製が現実を覆う世界は、もはや理論上の話ではなくなっている。
ただ、ここで「だから本物に価値がある」と単純に結論づけるのは少し違う気がする。むしろ問いたいのは、私たちが「本物」を求めるとき、そこにはどんな欲望や不安が張り付いているのか、ということ。ブランド品の真贋にこだわるとき、守りたいのは品質なのか、それとも「それを持つ自分」という物語なのか。
結局、偽造品が教えてくれるのは、価値というものが物そのものに内在しているわけではなく、関係性や文脈のなかで絶えず構成されているということだと思う。そしてその構成のされ方には、ジェンダーや階級、文化的な権力の偏りがいつも静かに作用している。
……うん、なんというか、「本物かどうか」を問う前に、「なぜ自分はそれを本物だと思いたいのか」を問うこと。その順番を入れ替えるだけで、見える景色はだいぶ変わるんじゃないかと思っている。


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