先日、NPOの広報誌の校正をしていて、ふと手が止まった。新人スタッフが書いた環境学習の報告文に、「子どもたちは楽しそうでした」とあった。嘘ではない。ただ、この一文では何も伝わらないということに気づく。どの場面で、どんな表情が、どの子に起きたのか。その粒度がないと、記録は記録として機能しないんだろう。
これは広報の話に限らない。
先月、知人の庭師——正確には造園の仕事をしている方——と話していたとき、似たことを聞いた。庭の手入れにおいて、「今年は例年より芽吹きが遅い」という感覚を持つこと自体は経験で可能になる。ただ、それを「何日ずれたか」「どの木から順にずれが出たか」という粒度で記録し続けることで、初めて土壌や気候の変化を読む専門性が育つのだと。感覚だけでは属人的な勘にとどまる。記録の粒度を上げることで、ズレが知見に変わるということなんだろう。
志帆自身の仕事でも、似た構造がある。環境問題を市民に伝えるとき、「わかりやすさ」を優先すると、どうしても情報の粒度は粗くなる。でも粗くしすぎると、受け手が自分の身体感覚や生活実感と結びつける余地がなくなってしまう。抽象的な「地球にやさしく」では、誰の手にも残らない。どこの、何が、どれくらい変わったのか。その具体の粒度が、人の記憶に残る一次情報になる。
……いや、でも、粒度を上げればいいという単純な話でもない。
記録が細かくなるほど、そこには記録者の視点の偏りも刻まれる。何を拾い、何をこぼしたか。その選択自体がひとつの解釈であり、権力でもある。ジェンダー統計の議論でもよく指摘されることだけれど、「何を数え、何を数えないか」が、社会の見え方そのものを規定する。粒度の工夫とは、つまり「何を見ようとしているのか」という問いを自分に突きつけ続ける行為なのだと思う。
庭の芽吹きのずれを記録すること。子どもの表情の変化を言葉にすること。統計の項目を設計すること。領域はまったく違うけれど、そこに通底しているのは、「ずれや微差を丁寧に拾い、言語化する」という態度への信頼ではないだろうか。直感を否定するのではなく、直感をもう一段深い場所に根づかせるために記録がある——そういう認識に至る。
完璧な粒度などないし、記録は常に不完全なものだと思う。それでも、不完全さを引き受けながら書き続けること自体が、専門性を耕していく。そのことが、異なる領域の実践者と話すなかで、少しずつ確かになっていく。
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