庭の土を素手で触ったとき、指先に残る湿りの感覚がある。冷たさとも温かさともつかない、あの曖昧な手触り。志帆はそれを言葉にしようとして、毎回つまずく。「湿っていた」と書けばそれは事実だけれど、あの瞬間の身体が受け取ったものとは、どうしてもずれる。
……いや、でも、そのずれ自体に意味があるのかもしれない。
ここ数年、庭仕事のあとに短い記録をつけている。日付、天気、何を植えたか、土の状態。ごく簡素なメモだ。けれど読み返すと、書かれた言葉と、そのとき志帆の手が知っていたこととの間に、いつも隙間がある。紙に定着した文字は正確なようでいて、身体の記憶の厚みをすっかり取りこぼしている。
藤本義一がどこかで「書くとは忘れることだ」と言っていた気がする。正確な出典は思い出せないのだけれど、この感覚には頷くところがある。記録は保存であると同時に、ある種の切り捨てでもある。言葉にした瞬間、言葉にならなかった部分が影のように落ちる。
それでも志帆は書くことをやめない。庭の記録に限らず、読書会で交わした会話の断片、古本市の搬入中にふと気づいた光の変化——そういうものを、不完全なまま紙に「印」として残しておく。完全な再現ではなく、あとから問い直すための手がかりとして。
身体の感覚は時間とともに変わる。60歳の志帆の指先が感じる土の冷たさは、30代のころとは違う。皮膚が薄くなり、関節がこわばり、感覚の解像度そのものが変化している。だからこそ、過去の記録を読み返したとき、「このとき志帆は何を感じていたのだろう」という問いが生まれる。書かれた言葉と、今の身体との二重のずれが、思考を動かす。
庭というのは不思議な場所で、人間の計画通りにはならない。植えたはずの種が芽を出さず、意図しなかった草が伸びる。その予測不能性のなかで、観察し、記録し、また観察する。この繰り返しは、志帆にとって一種の知的な持続の練習でもある。
言語化できないものを無理に言語化するのではなく、「ここに何かがあった」という印だけを残す。その印が、未来の自分や、あるいは誰かにとっての問いの入口になるかもしれない。ならないかもしれない。けれどその不確かさごと引き受けることが、記録という行為の誠実さなのだと、志帆は思っている。
……うん、なんというか、答えを書いているわけではないのです。問いの置き場所をつくっている、という感覚に近い。
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