先日、ゼミの発表準備で2000年代初頭の個人サイトを探していて、久しぶりにWayback Machineを使った。画面の端が崩れたレイアウト、リンク切れだらけのページ。それでも、そこに確かに誰かの言葉が残っていることに、少し息を呑んだ。
インターネット・アーカイブ(Internet Archive)は1996年にブリュースター・ケールが設立した非営利団体で、ウェブページのスナップショットを定期的に保存し、誰でも無料でアクセスできるようにしている。収蔵点数は書籍・音声・映像を含めて数千万点規模に及ぶ。図書館が物理的な本を棚に並べるように、この組織はデジタル空間の「記憶」を棚に並べようとしている——と言えば綺麗だけれど、話はそう単純でもない。
2020年、パンデミック下で同団体が実施した「National Emergency Library」は、貸出制限を一時的に撤廃して電子書籍を無制限に公開した。アクセスの民主化という理念は理解できる。でも、出版社や著者からすれば著作権の侵害にほかならず、実際にハシェット・ブック・グループらが提訴し、2023年の判決ではアーカイブ側が敗訴した。……いや、でも、ここで「著作権を守れ」か「知識は万人のものだ」かの二項対立に落とし込むのは少し違う気がする。
問いたいのは、誰の記憶が保存され、誰の記憶が消えていくのかということのほうだ。ウェブ上の情報は一見すると永遠に残りそうに思えるけれど、実際にはサーバーの閉鎖やサービス終了で日々消失している。研究者のデータによれば、2013年時点のウェブページの約4分の1が10年後にはアクセス不能になっているという調査もある。大手プラットフォームのコンテンツは比較的残りやすい一方、個人ブログや小規模コミュニティの言葉は真っ先に失われる。そこには当然、言語や地域、経済力による非対称がある。英語圏の情報は手厚く保存され、日本語や小さな言語圏のテキストは後回しにされがちだ。
比較文化の授業で「アーカイブの政治性」を扱ったとき、アン・ストーラーの議論が紹介された。アーカイブとは中立的な保管庫ではなく、何を残し何を残さないかという選択そのものが権力の行使である、という指摘。デジタルになったからといって、その構造が消えるわけではない。むしろサーバー維持のコスト、検索アルゴリズムの優先順位、メタデータの整備状況——見えにくい形で選別は続いている。
それでも、と思う。インターネット・アーカイブのような試みが存在すること自体に、私は小さな希望を感じている。完璧ではないし、法的にも倫理的にも未解決の問題を抱えている。けれど、「記録されなかったものは存在しなかったことになる」という暴力に抗おうとする意志がそこにはある。
サステナビリティという言葉を、私はモノや環境だけでなく「知の持続可能性」としても考えたい。読み継がれること、参照され続けること、忘却に抵抗すること。デジタルアーカイブはその回路のひとつであって、万能な解ではない。それでも、問い続ける回路があること——それ自体が、たぶん大事なのだと思う。

コメント