先日、Casioが発表したS100Xの漆(うるし)エディションの写真をタイムラインで見かけて、しばらく画面の前で止まってしまった。電卓に漆塗り。価格は数万円台後半。正直、最初の感覚は「美しい」と「……なぜ?」の同居だった。
漆という素材には、当然ながら途方もない時間の蓄積がある。木地を整え、下地を塗り、研ぎ、また塗る。その工程を何十回と繰り返すなかで、職人の手が素材と対話し続ける。京都に住んでいると、漆器は日用品としても、美術工芸としても、比較的近い距離にある。けれどそれは「身近=よく知っている」という意味ではなくて、むしろ近くにあるからこそ、安易に語りづらいものとして存在している感覚に近い。
Casioのこの製品が面白いのは、伝統工芸を「高級ガジェットの表面」に転用したとき、文化的文脈がどう変質するかという問いを否応なく突きつけてくる点だと思う。漆の技法そのものは本物で、職人の手仕事も確かに介在している。でも、それが「プレミアムな電卓」という文脈に載せられた瞬間、漆はある種の記号——「日本的なるもの」「本物志向」「所有する歓び」——として機能し始める。柳宗悦が『手仕事の日本』で書いた、用と美が分かちがたく結びつく世界とは、少し違う回路がそこに走っている気がする。
……いや、でも、それだけなら「伝統工芸の商品化」という、もう何度も語られてきた話で終わる。私がもう一つ引っかかったのは、この製品のマーケティングが想定している「主体」のことだった。S100Xのプロモーション写真に映るのは、重厚なデスク、万年筆、革の手帳。つまり「エグゼクティブな男性の書斎」という、かなり古典的なジェンダー化された空間だ。
伝統工芸の担い手には、歴史的に女性の手仕事が多く含まれてきた。漆の下地工程や研ぎの作業を担ってきたのは、名前の残らない多くの職人たちで、その中に女性がどれだけいたかは、記録の不在という形で逆説的に証明されている。ところが、それが「プレミアム商品」として市場に出るとき、消費する主体として想定されるのは特定のジェンダーと階層に偏る。作り手の文脈と買い手の文脈のあいだに、静かな断層がある。
これは糾弾したいわけではなくて——Casioが悪いとか、買う人が間違っているとか、そういう話ではない。ただ、ものが文化的文脈から切り離されて商品になるとき、誰の手が見えなくなり、誰の欲望が前景化するのか。その構造に意識的でありたいと思うだけだ。
鴨川沿いを歩きながら考えていたのだけれど、「本物」という言葉が消費の文脈で使われるたびに、何かが少しずつ擦り減っている気がする。それが何なのか、まだうまく言葉にできない。でも、言葉にできないまま抱えておくことも、たぶん必要な態度なのだと思う。


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