先週末、大学生協の古本市の搬入作業をしていて、ふと手が止まった。段ボール箱の底から出てきたのは、誰かが丁寧に線を引いた『沈黙の春』の文庫本だった。鉛筆の書き込みが残っていて、余白には「ここ、授業で使う」とだけ書いてある。持ち主がどんな授業を受けていたのかはわからない。でも、その一冊がまた誰かの手に渡って、違う文脈で読まれることになる——その循環のなかに自分がいるのだと思うと、不思議な手触りがあった。
タイトルに引いたのは、ナシーム・ニコラス・タレブの言葉だ。「うまくいっているものを見て、それから理解する」。理論が先にあって実践が後に来るのではなく、まず手を動かし、やってみて、そこから意味が立ち上がってくる——という順序の話。古本市の運営をしていると、この感覚にたびたび出くわす。
たとえば、値付けの問題がある。学術書と文芸書では原価も需要もまるで違うし、書き込みの有無で価値が変わる場合もある。最初の年はマニュアル通りに一律で価格をつけていたけれど、売れ残りが偏って、結局廃棄が増えた。翌年、先輩たちが「とりあえず棚の配置を変えてみよう」と提案して、ジャンル別ではなくテーマ別——「ひとりの夜に読む本」「怒りたいときの本」——に並べ直したら、驚くほど循環率が上がった。理論的な根拠があったわけではない。ただ、やってみたら回った。そしてあとから、「ああ、これは読者の動機に寄り添う設計だったんだな」と理解がついてきた。
……いや、でも、ここで少し立ち止まりたい。「実践が先、理論があと」という話を美化しすぎると、それはそれで危うい。無計画を正当化する言い訳にもなりうるし、再現性のない成功体験を神話化してしまうリスクもある。大事なのはおそらく、実践と理論のあいだを何度も往復すること、そのプロセス自体を記録し、開いておくことなのだと思う。
古本市で本が人の手から手へ渡っていくこと。それは資源循環であると同時に、知の循環でもある。誰かの書き込みが残った『沈黙の春』は、物質としてリユースされただけでなく、前の読者の思考の痕跡ごと次の読者に手渡される。サステナビリティという言葉を、モノの持続可能性だけでなく「考え続けることの持続可能性」として捉えるなら、古本市は小さな、でも確かな装置なのかもしれない。
結論めいたことを書く自信は正直あまりない。ただ、段ボール箱を開けて、一冊ずつ埃を払って、棚に並べるという身体的な行為のなかに、あとから言葉になる何かが埋まっている。その感触だけは、たしかだと思っている。


コメント