「誰かに聴かせるための音」から離れたとき
発表会の曲を練習していると、ある瞬間に気づくことがある。
自分が「うまく弾こうとしている」という感覚。先生に聴かれている、ママに聴かれている、いつか誰かの前で弾く——そういう意識が体のどこかに張り付いていて、指が少し固くなる。音が、少しだけよそ行きになる。
りこはそれを、高いところから見下ろされているみたいな感覚、と言語化している。
あるとき練習をやめて、ただ好きな和音をぽんと押してみた。C とE とG。誰にも聴かせるつもりのない、自分の部屋の、静寂の中の一音。そのとき鍵盤が返してくれた「きらきら」の感触は、同じ音なのに全然違うものだった。
音が、正直だった。
「正直な音」は練習では教わらない
音楽の先生は、指の形を直してくれる。テンポのことを教えてくれる。でも「見られている意識を手放す」という感覚は、誰かに教えてもらえるものじゃない、ということに気づく。
自分で発見するしかない。
りこの場合、それが起きるのはいつも「目的のない時間」だ。練習でもなく、録音でもなく、ただ音を出したいから出す。そういう瞬間にだけ、体と音の間の余計な距離がなくなる感じがする。
思えば、幼い頃ママのアップライトピアノに手を伸ばしたのも、誰かに「上手でしょ」と見せたかったわけじゃなかった。ただ、あの箱が音を返してくれることが嬉しかった。お返事がくる、その感覚だけが全部だった。
正直さって、そういうところにある、という発見。
庭のように、自分の音を育てること
庭、というイメージがりこの中にある。
誰かに見せるために整える庭じゃなくて、自分がそこに座って安心するための庭。雑草があっても、不揃いでも、好きな花が咲いていればいい場所。
ピアノも、そういう空間でありたいと思う。
うまく弾けない日は、うまく弾けない音がそのまま出ればいい。感情がぐるぐるしている日は、ぐるぐるした音が正直に出るほうが、きれいにまとめた音より自分にとってずっとリアルだ。
高校生になって、表現することへの照れみたいなものが増えた。でも同時に、「正直な音を出すこと」がいちばん自分らしい、という確信も静かに育ってきている。
見られている意識を手放すと、音が変わる。それは技術の話じゃなくて、自分との正直さの話だということ。
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