ノートを開くと、からだが先に知ってた
去年の秋、文具屋の棚でひとつの絵日記ノートを見つけた。
表紙がくすんだラベンダー色で、罫線のかわりに小さな窓枠の絵が並んでいる。
手に取った瞬間、からだが先に知ってた、という感覚があった。
これは、おとの日記を書くためのものだ、と。
りこは長いこと、音の記録というものをうまく残せないでいた。
弾いた曲の感触、レッスンで生徒がはじめて和音を鳴らした瞬間の顔、
窓の外を雨が叩く音と低いドの音が重なったとき胸の奥でごろごろした感じ。
そういうものは言葉にしようとするとするするとこぼれた。
絵日記ノートは、それを受け止めてくれる形をしていた。
文字を書く段と、絵や落書きを置く段が、ゆるやかに共存している。
うまく描けなくてもいい。記号でも、ぐるぐるでも。
手が聞く、という状態でページに向かうと、思わぬ感覚が出てくることを確認した。
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絵と言葉が、交互に音を立てる
りこの絵日記の書き方はだいたい決まっている。
まずノートを開いて、その日いちばん印象に残った音か色か手ざわりを、絵のスペースにざっと描く。
上手さは関係ない。今日の午後のピアノの音は、丸くてちょっとオレンジ色に近かったから、
丸いものを三つ重ねてオレンジのクレヨンで塗る。それだけ。
次に文字の段へ移る。
そこに書く言葉はいつも短い。
「きょう、ひなたの鍵盤のにおいがした」
「生徒のゆいちゃんが、ソをそっと押さえた。ちろちろしてた」
「帰り道、木がねむたそうだった」
絵と言葉が交互に並ぶと、不思議なことが起きる。
どちらか一方だけでは出てこなかった記憶が、ふいに浮かぶ。
脳のどこか別の引き出しが開く感じ、とでも言うのだろうか。
身体がおしゃべりしてくれる、という感覚に近い。
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子どもたちの絵日記から、りこが学んだこと
ピアノを教えていると、小学校低学年の子が絵日記の宿題を持ってくることがある。
「きょうりこせんせいとぴあのをひいた たのしかった」
そのとなりに、鍵盤らしいものと、ぱーっと広がる線の絵。
その絵を見て、りこはいつもはっとする。
子どもはあたりまえのように、感じたことを絵と言葉で同時に残している。
それを恥ずかしいとも面倒だとも思わずに、ただ手を動かしている。
大人になるにつれて、記録は「正確に、論理的に」という方向へ引っ張られた。
でも音の体験は、論理の前に感覚としてある。
絵日記というフォーマットは、そのことを思い出させてくれる道具だと確認した。
生徒たちの無邪気なページが、りこの先生でもある。
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絵日記ノートの選び方、りこなりの基準
文具好きとして、ノート選びには少しこだわりがある。
りこが今使っているものと、過去に使ったものを比べて気づいた基準をいくつか。
紙の厚さ。クレヨンや色鉛筆を使うなら、裏写りしない厚みが必要。
薄い紙だと手が萎縮して、思い切りよく色を置けない。
絵と文のバランス。絵のスペースが大きすぎると、文字を書く気持ちが薄れる。
文字の行が多すぎると、絵を描く手が止まる。
りこにとってのちょうどいいは、ページの三分の一が絵、三分の二が文字くらい。
表紙の色と手ざわり。これは完全に感覚で選ぶ。
手に持ったとき、ひんやりがしゃべってる感じか、ほわっとした感じかで決める。
ラベンダーのあのノートは、手に取った瞬間に「このひと、しずかだな」と思った。
そういう出会いは年に一度か二度しかないけれど、確実にある。
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書き続けることで見えてくる、季節の地図
絵日記ノートを一冊使い切ると、りこはかならず最初のページから読み返す。
一月の冬のページは、線が少なく色が少ない。青と白とグレーが多い。
五月になると急に絵が増えて、緑と黄色と薄いピンクが混ざりだす。
十月の秋のページは、りこが一番好きな。
茶色とオレンジと深い赤が並んで、文字もなんだかゆっくりした形になっている。
音もおなじ変化をたどっていることを、絵日記を通じて確認した。
秋になるとりこの弾くテンポが少し落ちる。
低音を多く使いたくなる。ペダルを踏む時間が長くなる。
それは意識してやっていることではなく、からだが季節に引っ張られているのだ。
一冊の絵日記ノートは、自分の感覚の年間地図になる。
それに気づいたとき、書き続けることの意味を、また少し深いところで受け取った。
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