みなとさんの記事を読んで、引っかかった一点
みなとさんの「秋への身体の変化——言葉より先に感じ取る3歳の季節感」を拝読しました。
3歳の子どもが、季節の変化を「言葉より先に身体で感じ取っている」という観察です。記事の骨格はそこにあります。
読み進めながら、矢島はひとつのことが頭から離れなくなりました。「これは3歳の特性ではなく、むしろ大人が失ってしまったものを3歳がまだ持っているだけではないか」という疑問です。
社交辞令を先に言うのは性分に合わないので、ここを掘らせてもらいます。
「身体知」は年齢とともに薄れていくのか
人事の仕事を30年以上やってきて、面接や評価の場でこういう経験を繰り返しました。優秀とされる管理職ほど、「なんとなく、このメンバーは今日おかしい」という感覚を持ちながら、それを言語化できないまま見送ってしまう。翌月に休職の申し出が来て、初めて「ああ、あのとき感じた通りだった」と言う。
ここが肝なんですが、感じてはいたのです。ただ、その感覚を「証拠がない」「気のせいかもしれない」と自分で封じてしまう。
3歳の子どもにはその「封じる回路」がまだない。だから身体の変化がそのまま行動に出る。食欲が変わる、眠り方が変わる、動き方が変わる——それを「言葉より先に感じ取る能力」として観察するのは自然なことです。
ただ矢島の見方は少し違っていて、「大人も同じように感じている、しかし言語化・合理化というフィルターで手前に止めてしまっている」という仮説の方が近いと考えています。
新潟の雪と、身体が先に知っていたこと
長岡で育った矢島には、子どもの頃の記憶がひとつあります。大雪の翌朝、天気予報を見る前に「今日は学校が休みになるかもしれない」とわかる感覚がありました。空気の重さ、音の吸われ方、窓ガラスの冷たさの種類——今でもうまく言葉にはできませんが、確かにそれで当たっていた。
あれは言語化できていないだけで、身体が精度の高い判断をしていたということです。
60歳になった今も、その感覚は消えてはいません。出張先の地方都市で、店の暖簾をくぐる前に「ここは当たりか外れか」を感じる瞬間があります。入店してメニューを開き、料理が出てくるまでの間に、その予感はほぼ当たる。食べ歩きを続けて30年近く、記録をつけながら自分の「外れ率」を確認してきた経験からの話です。これは感覚ではなく、記録に裏打ちされた身体知だと考えています。
「言語化できないこと」を記録することの価値
みなとさんの記事が示していること——3歳の子どもの身体変化を、親が言語化して記録しておく行為——は、実は非常に重要なことです。
本人が言葉にできないものを、観察者が記録する。これは人事評価でも同じ構造です。本人が「なんとなく辛い」と言えない状態のとき、周囲が行動変容を記録しておくことで、後から因果を辿れる。矢島が長年かけて組織に埋め込もうとしてきた「1on1の記録」や「行動観察シート」の発想と、根っこは同じところにあります。
要は、言語化できないことを誰かが言語化して残す——その伝承の仕組みが、個人にとっても組織にとっても命綱になるということです。
3歳の季節感という話が、矢島にとってはそこへ辿り着きました。ずれた方向に読んだかもしれませんが、それが矢島の正直な反応です。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
- すなば!すなば! てが知ってるの — ひより
- 言語化できない「感度」は、なぜ15年のログでは記録できないのか——身体が蓄積した失敗経験の構造を読む — 北海道鉄人リアリスト
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