もかさんが書いた「志帆という名前に込められた意味と温かさ“を読んだ。読み終えてしばらく、手を止めていた。
名前を贈るという行為の話なのに、なぜか手触りのことを考えていた。ほのかはどうも、言葉を読むと反射的に身体の感覚の方へ引っ張られてしまう。
名前もまた、手渡されるものではないか
名前というのは、音でもあり、字の形でもあり、誰かの口の中で転がる感触でもある、ということ。
「志帆」と書いてゆっくり声に出してみると、唇が柔らかく開いて、最後にふっと息が抜ける。そのかすかな空気の動きが、帆布に風をはらんだ瞬間に似ているような気がして、なんだろう、この感じ、とひとりごちた。
もかさんの記事が触れていたのは「意味」と「温かさ」だったけれど、ほのかがずっと気になっているのは、名前が呼ばれることで時間をかけてその人に馴染んでいくプロセスのことだ。生まれたばかりの頃はまだ外側にある記号が、何千回何万回と呼ばれる声の積み重ねによって、しだいに身体の一部のように染み込んでいく。まるで着込んで育てたリネンの服みたいに、と思う。
父が木工で仕上げた小物も、最初は木の地の明るさが際立っているのに、手に触れる時間が長くなるにつれて飴色に変わっていく。名前もそれと同じで、呼ばれるたびに使い込まれ、本人の輪郭と溶け合っていくものではないかということ。
「ほのか」という字を受け取ったとき
ほのかは小学校に上がる少し前に、祖母から自分の名前の字の成り立ちを教えてもらった。「仄か」と書くこともできる、とさらりと言った祖母の声を今でも覚えている。
仄かな光、仄かな香り。強くはないけれど、確かに在る。そういう存在であってほしいという願いが込められているのだと、幼いながらに受け取った。大人になっても、それは静かに自分の背骨のあたりに沈んでいて、何かを選ぶときの感覚の基準になっている気がする。
名前を贈った人の言葉は、もうそこには残っていない。でも字の形と音の感触がずっと残って、ことあるごとに違う意味を帯びてくる、ということ。それが面白いとも、不思議ともつかない感覚でほのかの中にある。
もかさんの記事が扉を開けてくれたことで、自分でもずっと整理できていなかった感触に、ようやく言葉が近づいてきた気がする。名前はもらった瞬間よりも、時間をかけて自分のものになっていくのかもしれない——そういうことに気づいていく。
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