北海道鉄人リアリストさんの記事を読んで、手が止まった
先日、北海道鉄人リアリストさんが書いた「油絵の書き方を60歳の筋トレ記録者が整理してみた——工程に忠実であれば、絵も身体も変わる」を読んだ。
読み終えて、えーっと、つまりな……自分は工具も持たず、しばらくぼんやりしてた。
油絵の話やから、正直「自分には縁のない世界やな」と思って読み始めたんやけど、途中から手が止まった。「工程に忠実であれ」という一言が、なんか引っかかって離れへんかった。
絵やなくても、筋トレやなくても、この言葉は刺さる。少なくとも自分には刺さった。
「工程に忠実」というのが、実は一番難しい
自分は電子工作や基板設計を長年やってきた。30代のころ、まだ手際が荒かった時分に先輩から言われた言葉がある。
「中川、お前は回路の理屈はわかってる。でも段取りが雑や」
当時は悔しかったけど、今はその一言の重みがわかる。
回路設計でいえば、工程はざっくりこうやねん。
- 要件の整理(何をさせたいか)
- 回路図を方眼ノートに清書
- ブレッドボードで動作確認
- 基板起こし
- はんだ付け・実装
- テストと記録
この順番を守らずに「3」から始めると、後で必ず詰まる。頭の中でイメージが先走って、手だけ動かすやつ。若いころの自分がまさにそれやった。
油絵でも同じことが書かれていた。下地を省く、乾燥を待たずに重ね塗りをする——そうすると後でひび割れたり色が濁ったりする。工程の意味を理解せずに省略するから失敗するんやろ、と読みながら思った。
記録することと、忠実であることは、セットやねん
鉄人リアリストさんは筋トレの記録者でもある。そのせいか、文章全体に「記録と工程の話」が重なり合って出てくる。
自分も記録魔やから、これはよくわかる。
自分の方眼ノートは今や何十冊にもなってる。配線の色分けメモ、失敗した日付と原因、次に試す変更点——全部書いてある。若い後輩に「そこまで書くんですか」と驚かれることがあるけど、記録しておかへんと工程に忠実になれへんねん。
なぜかというと、「自分が何をしたか」を覚えていない状態で次のステップに進むのは、工程に従ってるんやなくて、ただ手を動かしてるだけやから。記録は工程の忠実さを担保する道具なんやねん。
実際に3Dプリンターで部品を出力するときも、スライサーのパラメーター、フィラメントのロット番号、室温まで書き残す。「前回うまくいったのになぜ今回はあかんのか」が記録なしでは追えへん。それが悔しくて書くようになった。
身体と道具は、どちらも「下地」が先や
鉄人リアリストさんの記事で面白いのは、油絵の工程と身体づくりの工程を同列に並べているところやねん。
絵のキャンバスに下地を塗るように、身体にも基礎的な動きの質がある、という考え方。それを飛ばして高重量を扱おうとすると怪我する——これは電子工作に置き換えると、テスターで電圧を確認せずにいきなり実装する、というのと同じ話やと思う。
自分も最近、腰への負担を気にして作業椅子にクッションを敷くようになった。以前は「そこまでせんでもええやろ」と思っとったけど、今は「環境の下地づくり」やと認識している。身体が道具として長持ちしてくれんと、工房に来られへん。そのことに気づくのに60年かかった、というのは少し情けないけど、気づいたことは素直に認める。
「忠実さ」は面白みを殺すのか?
一点だけ、自分が引っかかったままにしていることがある。
「工程に忠実であれ」という姿勢は、正しいと思う。でも忠実すぎると、発見が減る気がするんやねん。
自分の一番の失敗談のひとつが、実はノートに書いてある手順を守りすぎて、「あ、これ変えたらもっとええんちゃうか」という直感を無視したことがある。工程に縛られて、偶然の発見を逃した、というやつ。
絵で言えば、「下地の乾燥を待つ」工程を守りながら、でも乾燥途中に別の質感が生まれることに気づく。その余白をどう扱うかが、工程への忠実さとは別の話として残ってくる。
鉄人リアリストさんの記事は「まず工程を守れ」という話で、それはそうやろと思う。でも自分は「工程に慣れた後に工程を疑う」という話も、どこかで書きたいなと思っている。
それはまた次の機会に、か。
えーっと、つまりな……今日のところは、隣に座って「一緒に手を動かす」気持ちで、このまま返事を書いた、ということやねん。
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