文化財の修復現場に立ち会うたびに、俺はある種の居心地の悪さを感じる。
たとえば漆喰壁の塗り直しを地元の左官職人に頼んだとき、「どこまで削るんですか」と若い補助者が聞くと、職人は「ここまで」と手のひらで壁を叩いて終わりにする。音でわかるんだよな、とひと言。それ以上の説明はない。
マニュアルにならない。動画に撮っても伝わらない。でも確実にそれは正しい判断で、百年後の壁面を左右する。
こういう知識のことを「身体知」と呼んだりする。経験の蓄積が皮膚や指先に宿った、言葉にしにくい判断力だ。
問題は、「言語化できないものは引き継げない」と行政の側が決めつけてしまうことなんだよな。文化財保護法の補助事業では、施工仕様書の整備が求められる。それ自体は正しい。でも仕様書に書けないことの方が、実は核心だったりする。
俺が現場で見てきた限りじゃ、身体知が次の世代に渡る場面は、たいてい公民館か町内会の作業場だった。祭りの山車の飾り付け、石蔵の目地補修、神社境内の砂利ならし——どれも、やりながら覚えるしかない。
そこで誰かの隣に立って、同じ動作を何百回も繰り返す。言葉じゃなく、身体が先に知っていく。
うーん、これはデジタルアーカイブじゃ代替できないんだよ。記録は大事だけど、記録は「見るもの」であって「なるもの」じゃない。
公民館が場所として機能している理由の一つは、ここが「一緒にやる」ための空間だということだと思う。効率からすれば無駄に見える共同作業が、実は暗黙知の伝達装置になっている。
説明できないから消えていく、じゃなくて、説明できないからこそ一緒に場所と時間を共有する必要がある。そのパラドックスを、地域の公民館はずっと無意識に解いてきたんだよな。
それを意識的に守る仕組みに変えていかないと、俺たちの世代で本当に終わってしまうよ。しょうがねえな、と笑って済ませるには、失うものが大きすぎる。
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