「書けば残る」という幻想に、俺はずっと疑問を持ってきた
公民館の書庫には、分厚いファイルが何十冊も眠っている。地域行事の記録、講座の実施報告、文化財の調査票。どれも丁寧に作られていて、読めばそれなりのことはわかる。でも、あのファイルを読んだだけで、来年の秋祭りを仕切れる人間が育つかというと——俺はそうは思わないんだよな。
行政に入って25年。社会教育の現場で一番痛感してきたのは、引き継ぎの難しさだよ。制度の説明は文書でできる。手続きの流れもマニュアル化できる。だけど「あの老人会の会長は直接声をかけないと動いてくれない」とか、「神社の宮司さんは祭りの2か月前から準備が始まるから、行政側の担当者は3か月前に挨拶に行かないとダメだ」とか、そういう身体知はどこにも書いてない。書けないんだよ、本当のことを言うと。
記録は大事だ、それは否定しない。でも記録が引き継ぎの主役になった瞬間に、何かが薄まる。俺が気にしているのはその「薄まり」なんだよな。
習慣という器に、経験は宿っている
うちの市内に、毎朝6時半から神社の境内を掃き清める80代のおじいさんがいる。もう30年以上続けているらしい。本人に「なぜやるんですか」と聞いたら、「やらないと落ち着かないから」と言った。理由は言語化できない。でも、その習慣の中に、地域とその場所との関係性の全部が詰まっていると俺は思う。
習慣というのは、経験が身体に沈殿したものだと俺は考えている。意識的に「これを覚えよう」と思って身につくものじゃなくて、何度も同じ場所に立ち、同じ人と言葉を交わし、同じ季節に同じことをする中で、気づいたら身体に刻まれているもの——それが習慣だよ。
公民館の講座を長年担当している職員の動きを見ていると、よくわかる。参加者の顔を見ながら話の速度を変える、質問が出にくい空気を察して雑談を挟む、後片付けの最中に誰かが相談しやすいように残る。マニュアルには一行も書いていないことを、ごく自然にやっているんだよな。その人は「普通のことですよ」と言うけど、普通じゃない。20年かけて身体に積み上げた判断力だよ。
関係性の中でしか、身体知は移らない
じゃあ、どうやって引き継ぐのか。俺の答えは「一緒にいる時間を作ること」以外にない。
10年ほど前、市内の獅子舞保存会が後継者問題で揉めたことがあった。若い人が入らない、技術が途絶えるという話で、最初は動画を撮って記録に残そうという案が出た。俺も関わっていたから一応聞いてたんだけど、動画を撮り終えて「はい、残りました」で終わる話じゃないだろうと、当時の担当者と何度も議論した。
結局そのとき俺たちがやったのは、小学校の総合学習の時間に保存会のおじさんたちを呼んで、子どもたちが一緒に太鼓を叩く機会を作ることだった。毎年続けた。その子どもたちが今、中学生や高校生になって、祭りの日に手伝いに来るようになっている。技術はまだ全然だよ。でも関係性はできた。人がいれば、技術はいずれ移る。人がいなくなったら、動画だけが残る。
身体知というのは、関係性の中でしか移らないんだよな。「教える」じゃなくて「一緒にいる」。「伝える」じゃなくて「同じ場に立つ」。その差は小さいようで、10年後に大きな違いになる。
記録と関係性を、両輪にすること
いやぁ、じゃあ記録は要らないのかというと、そうじゃない。記録は補助線だよ。関係性が生まれた後で、「あのとき誰が何をしたか」を確かめる地図になる。先に地図ありきで歩くものじゃない、という話をしたいんだよな。
俺が今やっていることの一つに、週末の建造物記録調査がある。市内に残る石蔵や土蔵を一軒一軒、写真と手書きのメモで記録している。数年前から続けていて、去年は若い市職員が一人ついてきた。最初は黙ってカメラを向けていたけど、3回目くらいから「この積み方、他と違いますよね」と言い出した。身体が場所を覚え始めた瞬間だよ、あれは。
記録を一緒に作ることが、関係性を育てる入口になることもある。大事なのは、記録を「残すもの」として完結させないことだと思う。「次にここに来る誰かへの手紙」だと思いながら書く。そういう感覚で積み上げた記録は、後から来る人間の身体を少し動かす力がある。
次世代に渡せるのは、習慣を育てる場所だけかもしれない
50になって、俺がはっきりわかってきたことがある。自分の経験そのものは、誰にも渡せない。そんなものは最初から渡せないんだよな。渡せるのは、習慣が育つ場所と、関係性が生まれる機会だけだ。
公民館が、町内会が、祭りが——地味で非効率に見えるそれらの仕組みは、習慣を育てる「器」なんだよ。器さえあれば、経験は少しずつ注ぎ込まれていく。器を壊してしまったら、いくら記録が残っていても、もう何も積み上がらない。
壊す前に、何が失われるのかを問い続けることの大切さを、俺はこれからも言い続けるつもりだよ。それが、残り10年の行政人生で自分に課した仕事だと思っているから。
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