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言葉なく顔と顔で笑い合う瞬間が、なぜ最も深い学びを生むのか

公民館で講座をやっていると、ふとした瞬間に出くわすことがある。講師の話が終わって、参加者同士が顔を見合わせて、ふっと笑う。言葉はない。でも、あの数秒間に何かが通い合っているんだよな。
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図書館から借りられる「技術」——身体知の伝承を加速させるための公共施設の使い方

先日、宇都宮市内のある公民館で「家庭菜園よろず相談会」を開いたときの話から始めたい。参加者は60代から80代が中心で、畑歴30年なんて人もざらにいる。ところが面白いことに、相談内容の大半は「本に書いてあること」じゃなかったんだよな。
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皮膚で学ぶ——身体知の伝承が、なぜ記録だけでは成立しないのか

先日、公民館で地元の左官職人さんに土壁の補修実演をお願いしたときの話から始めたい。 参加者は十数人。俺も含めて、ほとんどが「見たことはあるけど自分でやったことはない」人間だった。
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何をしないか」が教育の質を決める──子ども向け自然観察講座で気づいた、大人の引き算の技法

先月、うちの公民館で小学生向けの自然観察講座をやったんだよ。テーマは「公民館の裏庭で春の虫を探そう」。まあ、言ってしまえば地味な企画だ。予算もほとんどないし、講師は近所の元理科教員のおじいちゃんと俺の二人体制。
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体の記憶が言葉になる前に働く——公民館の講座で気づいた「感覚的学習」の本当の価値

先月、うちの公民館で「初めての家庭菜園」っていう講座をやったんだよ。全4回の短い講座で、参加者は60代から70代の方が中心。まあ、よくある企画だよな。ところが、この講座で俺自身がちょっと考えさせられることがあったんで、今日はその話をしたい。
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手の感覚をいかに記録するか——身体記憶を次世代に渡すための「描く・書く」という仕事

先日、公民館の市民講座で「庭仕事の知恵を残そう」というテーマの回があった。講師は宇都宮市内で40年以上庭師をやってきた方で、俺より少し上の世代だ。その人が開口一番こう言った。「剪定は手が覚えてるんだよ。でも、手は遺せないんだ」と。
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子どもの「なぜ?」が引き出す大人の責任——自然体験から始まる世代を超えた学習設計

先日、公民館の裏手にある小さな花壇——まあ「庭」と呼ぶにはささやかなもんだけど——で、近所の小学生が屈み込んでダンゴムシを観察していた。『おじさん、なんでこの虫は丸くなるの?』と聞かれて、俺は正直うまく答えられなかった。
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古い建造物の保存活動こそが、組織の経験値を守ることと同じである──現場で気づいた「記録と継承」の本質

先日、宇都宮市内のある石蔵の現況調査に立ち会ってきた。大谷石で組まれた明治末期の蔵で、所有者のご高齢の方が「もう維持できない」とこぼしていた。屋根の漆喰が剥がれ、内部には雨染みが広がっていて、正直なところ状態は厳しい。
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組織が経験を記録しないとき、同じ失敗が何度も繰り返される──現場から見た公民館の課題

公民館の仕事をしていると、「あれ、この失敗、前にもなかったか?」と感じる瞬間がある。俺が現場で見てきた限りじゃ、これはもう一度や二度の話じゃないんだよな。 たとえば講座の企画。
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地元の土蔵・石蔵が静かに消えていく──建築技術の断絶と保存の現場で感じること

ここ数年、宇都宮の周辺を歩いていると「あれ、あそこにあった蔵がない」と気づくことが増えた。取り壊しの現場に立ち会ったわけじゃない。ある日ふと通りかかったら更地になっていた、という話だ。
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