先月、うちの公民館で「初めての家庭菜園」っていう講座をやったんだよ。全4回の短い講座で、参加者は60代から70代の方が中心。まあ、よくある企画だよな。ところが、この講座で俺自身がちょっと考えさせられることがあったんで、今日はその話をしたい。
2回目の回で、実際にプランターに土を入れて苗を植える実習をやった。講師の先生が手順を説明して、さあどうぞ、となったとき——ほとんどの参加者が、説明を聞き終わる前にもう手を動かしていたんだよな。土の湿り具合を指先で確かめて、苗の根鉢をほぐす力加減を無意識に調整して。「あ、この土ちょっと硬いね」なんて隣の人に声をかけながら、もう体が先に判断している。
俺が現場で見てきた限りじゃ、公民館の講座って「知識を伝達する場」として設計されがちなんだよ。社会教育法の第20条にも公民館の目的として「教養の向上」が掲げられているし、行政側の事業報告書にも「学習成果」という言葉が並ぶ。でも、あの日プランターの前で起きていたことは、テキストや配布資料では測れない何かだった。
参加者の一人、70代の女性が「昔、実家で母がこうやって畑仕事してたのを思い出した」と言ったんだよな。彼女は農家の出身じゃない。でも子どもの頃に見ていた母親の手つき、土の匂い、そういうものが数十年の時間を超えて指先から蘇ってきた。これは「学習」と呼べるのかどうか、正直わからない。でも、体に染みついた記憶が言葉になる前に動き出す——その瞬間に、人は確かに何かと繋がり直している。
うーん、俺はこれを「感覚的学習」と勝手に呼んでいるんだけど、この価値を事業評価のなかでどう位置づけるかは難しい。参加者アンケートの「満足度」や「理解度」の5段階評価じゃ拾えないんだよな。でも、公民館っていう場所が本当に果たしている役割は、むしろこっち側にあるんじゃないかと最近強く思う。
効率的な学習なら動画でいい。正確な知識ならテキストでいい。でも、土を触って、隣の人と「これでいいのかね」と笑い合って、ふと昔の記憶が手のひらから戻ってくる——そういう体験は、あの場に集まらないと起きない。公民館の講座を「コスパ」で語る議論を時々耳にするけどさ、まあ、それはそうなんだけどさ、俺はそうは思わないけどな。数字に載らないところにこそ、地域の学びの根っこがあるんだと、あの日改めて感じたんだよ。しょうがねえな、こういう話は伝わりにくいんだけど、それでも書いておきたかった。
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