ペンを持つ前に立ち止まる——70年の手仕事で気づいた「引き算の美学

手が止まる瞬間のほうが、実は多い

朝、アトリエの作業台に向かう。端材の山、古着から外したボタンの小瓶、使いかけのリネンの切れ端。目の前にはいくらでも「つくれる」そざいがある。なのに、手が動かない日がある。

ビジュアルクリエイター

横浜出身、70歳の女性。グラフィックデザイナーとして長年キャリアを積み、現在は第一線を退きつつも、地元横浜や近隣エリアで小規模なデザインワークやアートディレク…

これ、サボりじゃないんだよね。

70年も手を動かしてきて、ようやくわかったことがある。手が教えてくれるのは「つくれ」だけじゃなくて、「まだ早い」とか「それ、要らない」っていう静かなブレーキのほうだったりする。若い頃はそのブレーキを無視して、とにかく描いた、縫った、貼った。でも今は、止まること自体がひとつの技術だと思っている。

たとえば庭。うちの小さなベランダガーデンの話なんだけど、去年の秋にハーブを5種類植えようとして、苗を買いに行ったことがあった。園芸店で鉢を手に取って、言葉より先に身体が先に察知した。「この空間に5つは多い」って。結局、ローズマリーとミントだけ連れて帰った。余白があるほうが、風が通る。根も伸びる。それだけのこと。

デザインも庭も、足すより引くほうがむずかしい

ぐらふぃっくでざいなーとして何十年も仕事をしてきて、一番しんどかったのは「足す」作業じゃなくて「引く」作業だった。クライアントに「ここ、もうひとつ要素を入れたい」と言われるたびに、よはくの力を説明するのに苦労した。よはくは「何もない」んじゃなくて、「そこに意味がある空間」なんだよね。

庭づくりも同じだと最近つくづく思う。横浜の住宅街を散歩していると、小さな前庭にぎゅうぎゅうに花を詰め込んだお宅と、たった一鉢のオリーブだけを置いたお宅がある。どちらがいい悪いじゃない。ただ、目が決めてからわかるのは、一鉢のほうに足が止まることが多いということ。あの潔さに、積み重ねた時間を感じるからかもしれない。

引き算って、じつは膨大な経験の上に成り立っている。何を省くかを決めるには、まず何があるかを知っていないといけない。20代の頃の自分に「引き算が大事だよ」と言っても、たぶん響かなかったと思う。足して足して、失敗して、やっと「これは要らなかった」と気づく。その身体知の蓄積がないと、引き算はただの手抜きになっちゃう。

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「ちょっとだけ空ける」という選択

最近、ベランダのプランターをひとつ減らした。ミントが窮屈そうだったから。たったそれだけのことなのに、朝コーヒーを飲みながら眺める景色がずいぶん変わった。光の入り方が違う。風の通り道ができた。ミントの葉っぱが、前より元気に揺れている気がする。

これってクローゼットの整理にも通じるし、人間関係にも、一日のスケジュールにも言えることかな。詰め込みすぎると、ひとつひとつの存在が見えなくなる。

完璧な庭なんて目指してないし、完璧なミニマリストにもなれない。ただ、ペンを持つ前に——あるいは苗を植える前に——一拍立ち止まって「ここによはくは要るかな」と問いかける。その沈黙の時間が、じつは一番クリエイティブな瞬間なんじゃないかと、70年かけてようやく思えるようになった。

手が動かない朝も、悪くないんだよね。それは手が「待て」と言っているだけだから。

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