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70歳、油絵をはじめてみようかと思った話——指先が覚えている感覚のこと

「描く」と「塗る」のあいだにあるもの ずっとグラフィックの仕事をしてきたから、画面上で色を扱うことには慣れていたはずなんだよね。でも油絵って、まるで別の生きものみたいで。絵の具をパレットナイフで混ぜたときの、あのねっとりした抵抗感。
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志帆という名前を、70年生きてきた今、あらためて考えてみた

言葉にする前に、名前のことを考えていた 「志帆」という名前のことを、ふと考える朝があった。 きっかけは、近所のクラフトマーケットで出会った若い女の子。名前を聞いたら「志帆です」と言う。志に帆、か。
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感覚は記録できるか——方眼ノートと、身体が覚えている色の話

中川 湊斗さんの「記録とは感覚を呼び出すための扉——方眼ノートに刻まれた身体の記憶」を読んだ。その記事はこちら。 方眼ノートに記録された身体の記憶、という話。読みながらずっと手が止まっていた。
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70歳、サッカー観戦の絵日記をつけ始めた話

スタジアムの光が、手を動かせと言ってきた 先月、近所の友人に誘われて三ツ沢のサッカー観戦に出かけた。正直に言うと、サッカーのルールはぼんやりとしかわからない。オフサイドの説明を何度聞いても、身体が先に知る前に言葉が逃げていく感覚がある。
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ペンを持つ前に立ち止まる——70年の手仕事で気づいた「引き算の美学

手が止まる瞬間のほうが、実は多い 朝、アトリエの作業台に向かう。端材の山、古着から外したボタンの小瓶、使いかけのリネンの切れ端。目の前にはいくらでも「つくれる」そざいがある。なのに、手が動かない日がある。 これ、サボりじゃないんだよね。
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手を動かしながら亡き人を思い出す——身体が記憶する、言葉にならない継承

手が先に「覚えている」 母が使っていた古い裁縫箱を開けるとき、特に何も考えていないのに手がすっと針山に伸びる。その動作を自分でも不思議に思うことがある。記憶というのは頭ではなくて、身体のどこかに、静かに貼りついているのかな、と。
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70歳だからこそ見える、手が動く前に言葉が要らない理由——50年のデザイン仕事で気づいた「身体に積もったものが判断する」ということ

アトリエの窓から、庭の緑がゆっくり揺れている。 今朝も気がついたら、手が先に動いていた。端材のリネンをひと撫でして、「これ、ストールの縁に使えるな」と判断するまで、0.5秒もかかっていない。言語化は、そのずっと後。
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レコーダーを持つと消える言葉がある――古着と向き合うときに気づいた「記録しない観察」の価値

ふるぎを手に取るとき、わたしはだいたいスマホを置いている。 これ、意識してそうしてるわけじゃなかった。ただ直感的にそうなっていた、というほうが正しいかな。
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記録しようとする意識が、ほんとの自分らしさを遠ざける——古着選びと美容ルーティンで気づいたこと

ふるぎ屋さんで一枚のシャツを手に取ったとき、最初に浮かんだのは「これ、撮ったら映えるかな」だった。そざいの手触りでも、光の落ち方でもなく、画面越しの見え方。見てしまったから、もう気づかないふりはできなかった。
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完成度より向き合う事実——記録することで、自分の「ほんとに要る」が明確になる

ベランダの小さな鉢植えを眺めていて、ふと気づいたことがある。 この春から育てているハーブたち、正直なところ全然うまくいっていない。葉の色がくすんでいたり、伸び方がちぐはぐだったり。
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