スタジアムの光が、手を動かせと言ってきた
先月、近所の友人に誘われて三ツ沢のサッカー観戦に出かけた。正直に言うと、サッカーのルールはぼんやりとしかわからない。オフサイドの説明を何度聞いても、身体が先に知る前に言葉が逃げていく感覚がある。でもね、スタジアムに足を踏み入れた瞬間、芝のグリーンとナイター照明の白い光のコントラストに息を呑んだ。ぐらふぃっくでざいなーとして何十年も「光」を扱ってきたはずなのに、あの生の発色にはかなわないなと素直に思った。
帰り道、頭の中にずっと残っていたのは試合の結果じゃなくて、観客席から見た色彩の記憶だった。芝の濃淡、ユニフォームの赤と青がぶつかる瞬間、夕暮れからナイターへ移る空のグラデーション。それを「描き留めたい」という衝動が湧いて、翌朝から絵日記をつけはじめたという、まあそれだけの話。
絵日記という「ちょうどいい器」
スケッチブックではなく、あえて無印の文庫本ノートを選んだ。小さいページに収まる量しか描かない、というルールが心地いい。試合の全体像なんて到底描けないから、「あの瞬間」だけを切り取る。コーナーキックの直前、選手たちが一瞬止まる間。売店で買ったコーヒーの紙カップの茶色。隣の席のおじさんが被っていたくたくたのキャップの形。
水彩色鉛筆を3本だけ持っていく。グリーン、ブルーグレー、それからオレンジ。色数を絞ると、目が勝手に「この場面で何色が一番響くか」を吟味しはじめるのがおもしろい。これはデザインの仕事で何百回とやってきた作業と同じ構造なんだけど、サッカー観戦という文脈に置き換わるだけで、感覚がまるで新鮮になるという逆説的な構造が浮かび上がり、自分でも驚いている。
先週の観戦では、後半ロスタイムにゴールが決まった。周囲が一斉に立ち上がる気配、空気の振動、歓声の波。その「音の質感」をどう絵にするかで帰宅後30分は悩んだ。結局、オレンジの色鉛筆で画面の端をぐしゃっと塗りつぶした。言葉が後からついてくる、というのはまさにこういうことだと思う。
記録することと、味わうことの間
絵日記をつけるようになってから、観戦中の自分の目が明らかに変わった。試合の流れを追うというより、光の質的変化や人の動きの「間」を拾っている。サッカーファンの友人には「それ、試合観てないでしょ」と笑われたけど、まあ否定はしない。
ただね、記録しようとすることで、逆に「今ここ」への集中が深まるという不思議がある。カメラを構えると風景が遠くなることがあるけれど、絵日記は違う。描くために観察する、観察するから記憶に残る、記憶に残るから後で描ける。この循環のなかに、ゆっくりと沈んでいく感じ。
70歳にして新しい趣味、というと大げさかな。たぶんこれは趣味というより「見ることの練習帳」みたいなもの。次の試合は来週末。水彩色鉛筆をもう1本だけ増やそうか迷っている。増やすならイエロー。ナイターの照明の色をどうしても拾いたくて、でも3本という制約が効いているのも知っていて。この「ちょっとだけ足すか、足さないか」の逡巡こそが、ものづくりの本質へと辿り着く入り口なんだと、芝生の匂いを思い出しながら静かに確認し合った、ノートの余白と私。
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