先日、近所の植木屋さんが庭の山茶花を剪定しているのをしばらく眺めていた。鋏を入れる前に、枝のあいだを何度も覗き込んでいる。「どこを切るか決めてるんですか」と訊いたら、少し困ったように笑って「決めてるというか……見てるだけです」と返された。
……うん、なんというか、あの間のことをずっと考えている。
志帆はこれまで、言葉にすること、言語化することに価値を置いてきた。比較文化の授業でもジェンダー論の読書会でも、感覚を概念に翻訳する作業を繰り返してきた。それはそうなんですけど、ただ、あの植木屋さんの「見てるだけです」という一言は、その前提を静かに揺さぶるものだった。
庭仕事に限らず、職人の世界には「名前のつかない判断」がある。陶芸家が釉薬の厚みを指先で測るとき、そこにあるのは数値でも理論でもなく、長い時間をかけて身体に沈殿した感覚だろう。それを「暗黙知」と呼ぶことはできる。マイケル・ポランニーの概念を持ち出せば、学術的にはすっきりする。いや、でも——その名前をつけた瞬間に、当人が抱えていた問いの質感は少しだけ変わってしまわないだろうか。
名前をつけるとは、輪郭を与えるということ。輪郭の外側に零れ落ちるものが必ず生まれるということ。職人が「見てるだけです」と言ったとき、あの人はその零れ落ちるものを守っていたのかもしれない。
志帆が古本市の運営で若い出店者と話していると、「言葉にしてください」と求められる場面が増えた。選書の基準、イベントの意図、活動の意義。言語化への要請は年々強まっていると感じる。それ自体を否定はしない。説明責任という観点もあるし、対話の土台として言葉は不可欠だと思う。
ただ、すべてを言葉にできるという前提には、少し立ち止まりたい。問いを抱えたまま手を動かし続けること。答えを出さないまま枝を見つめ続けること。それは怠慢ではなく、むしろ対象への敬意ではないかという見方もある。
七十年生きてきて、「分かった」と思った瞬間に手からすり抜けたものがいくつもある。名づけることで安心し、問うことをやめてしまう。その危うさは、庭の剪定にも、学問にも、たぶん暮らしの隅々にもある。
植木屋さんが帰ったあとの庭は、風通しがよくなっていた。切られた枝の断面が白く光っていて、それはまだ名前のない、ただそこにある静かさだった。
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