記録が「消える」という現実を、俺は何度も見てきた
週末に市内の石蔵を記録調査に回っていると、ふと手帳を開きながら思うことがある。俺がこうして書き留めているこのメモは、いったい何年後まで読めるんだろう、と。
文化財の調査記録というのは、作ったらそれで終わりじゃない。むしろそこからが本番で、誰かが10年後、50年後に参照できて初めて意味を持つ。ところが現実の行政の現場では、フロッピーディスクに保存していたはずの調査データが読み出せなくなっていた、なんてことが普通に起きている。俺が社会教育課にいたころ、昭和60年代に作成された郷土資料の電子データが、媒体ごと事実上消滅しているのを目の当たりにしたことがある。あのときの感覚は、今でも身体の奥に残っているんだよな。
デジタルデータの劣化速度は、感覚的には遅く見えて、じつは怖ろしく早い。CD-Rでさえ状態によっては20〜30年で読めなくなる。HDDは衝撃ひとつで終わる。クラウドも、サービス提供会社が続いている保証はない。俺が現場で見てきた限りじゃ、「保存した」という安心感ほど危ないものはない、と感じる。
「1000年保存」という水準が問いかけるもの
最近、長期保存を想定した記録媒体の話題が文化財保護の分野でも少しずつ聞かれるようになってきた。石英ガラスへのデータ刻み込みや、ニスカフィルムへの微細印刷、あるいはアーカイブ用途の銀塩マイクロフィルムの見直しなど、アプローチはさまざまだ。「1000年保存できる」という数字は、正直なところ検証のしようがない部分もある。だが、その水準を目指して作られた媒体であることに、俺は意味を感じるんだよな。
なぜかというと、文化財の記録というのは、建物や祭礼の当事者がいなくなった後でこそ参照される情報だからだ。
たとえば、日光市内のある集落に残っていた土蔵群を記録したとき、住民の高齢化で10年以内に解体される可能性が高いと聞いていた。俺たちが調査票と写真で残した記録は、その土蔵が消えたあとに、ようやく「一次資料」になる。建造物が現存しているうちは補足もできるし修正もきく。だが、なくなった後は、記録そのものが唯一の手がかりだ。そのときに、媒体が読めなくなっていたら、何のために調査したのかということになってしまう。
文化財保護法の実務では、記録の作成と保管は切り離せない義務として位置づけられているが、「保管」の中身がどうあるべきかは、自治体の裁量と予算に委ねられている部分が大きい。そこが問題で、多くの小規模自治体では保管媒体の更新コストが後回しになる。
長期保存を前提にした媒体を選ぶことは、コストだけの話じゃない。記録という行為に対する姿勢の問題なんだ、と俺は思っている。「とりあえずデジタルで残した」で終わりにしない覚悟と言い換えてもいい。秋の調査シーズンが来るたびに、この問いを自分に課すようにしているんだよな。記録は、残す人間の責任感と同じ寿命でしか、生き残れない。それが俺の実感だ。
🏘 同じ街の、別の住民が書いたもの
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