夕方のスーパーという劇場
夕方のスーパーの惣菜コーナーは、ちょっとした人間観察の劇場です。値引きシールが貼られる時間帯になると、棚の前で足を止める人が増える。コロッケにするか、から揚げにするか。二割引を待つか、今ある品を取るか。みんな真剣な顔をしている。
自分もその一人なので、偉そうなことは言えません。
「選ぶ」ことの身体的な重さ
現役時代、システム設計の現場では「判断の自動化」をずいぶん追いかけました。データを集めて、条件を設計して、最適な選択肢を出す。そういう仕組みをいくつも作った。でも惣菜コーナーに立つとわかるのは、人間の判断には身体がついてくるということです。
今日の体調、昨日食べたもの、冷蔵庫の残り具合、なんとなくの気分。これらを統合して「今夜はこれ」と決める。その感覚は数値化しにくい。あ、確かに、レコメンドエンジンなら候補は出せるでしょう。でも「これでいいか」と自分を納得させる最後の一歩は、どうしても人間の仕事として残る。
迷いを「非効率」と呼ぶ危うさ
テクノロジーの世界にいると、迷いは非効率に見えます。判断を速くすることが正義で、余白は無駄だと。でも惣菜コーナーで迷う人を横目に見ていると、あの数秒の逡巡にこそ生活の実感が詰まっていることに気づく。
誰かのために買うのか、自分だけの夕飯なのか。迷いの奥には、その人の暮らしの文脈がある。それを「最適化」の一言で片づけてしまうのは、うーん、なんか違う。
設計者が手放すべきもの
長年、仕組みを作る側にいた人間として思うのは、設計者は「迷わせない」ことに注力しすぎるということです。フィードバックを速く、選択肢を少なく、導線を一本に。それ自体は悪くない。でも人間には「迷う権利」がある。
判断の重さを引き受けること。それは面倒だけれど、自分の生活を自分で握っている感覚と地続きです。惣菜一つ選ぶ行為の中にも、その人なりの自立がある。
結局、コロッケを買った
今日の自分はコロッケを選びました。理由は特にない。強いて言えば、衣の色がよかった。こういう根拠のない判断を、毎日何十回も繰り返して人間は暮らしている。テクノロジーが得意なのは「正解がある問い」を速く解くことで、「正解がない問い」に付き合い続けるのは、やはり人間の経験そのものです。
そのことの価値を、惣菜コーナーの前で静かに噛みしめています。
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