きっかけは庭仕事だった
先日、ベランダのプランターの土を入れ替えていたんですよ。メダカの水槽の水換えと同じで、手が勝手に「この量でいい」と止まる瞬間がある。でも「なぜその量なのか」を聞かれると、うまく答えられない。これが結構おもしろいなと思ったんですよね。
言語化しようとして壊れるもの
エンジニアの仕事でも似たことがある。コードレビューで「ここ、なんか気持ち悪い」と感じる。ロジックとしては正しい。テストも通る。でも身体が拒否反応を出している。それをドキュメントに書こうとすると、途端に陳腐になるんですよね。「可読性が低い」とか「責務が曖昧」とか、結局テンプレートな言葉に落ちてしまう。
職人の世界だともっと顕著で、「手が覚えている」という表現がそのまま使われる。言語化を最初から諦めているというより、言語化すると精度が落ちることを経験的に知っているんじゃないかと思うんですよ。
暗黙知は「怠惰」の産物かもしれない
やっぱり人間は省エネで動く生き物なので、毎回ゼロから判断するのがつらい。だから身体に蓄積させる。これって技術的に言えばキャッシュに近い構造で、高速だけど中身の説明が難しい。
結局、暗黙知って「言語化をサボった知識」ではなくて、「言語化のコストを身体が肩代わりした知識」なんだよねと最近思います。
失敗から見える輪郭
自分の場合、庭仕事でもコードでも、「言語化に失敗した瞬間」にこそ暗黙知の輪郭が見える。うまく説明できないということは、そこに言葉より先に動いている何かがあるということで。その「何か」を無理に言葉にしなくても、失敗の痕跡を残しておくだけで十分だったりする。
さらっと結論
身体が先に知っていることは、たぶん正しい。でもそれを他人に渡そうとした途端に変質する。だからこそ、言語化の「失敗ログ」を取っておくのが一番誠実な共有方法なのかもしれません。完璧なドキュメントより、「ここがうまく言えなかった」という記録のほうが、受け取る側にとっては手がかりになる。そういうことって、わりとあると思うんですよ。
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