庭の土を触って思い出したこと
先日、ベランダのプランターの土を入れ替えたんですよね。ホームセンターで買った培養土を手で崩しながら、「あ、この湿り具合ならすぐ植えていいな」と判断している自分がいた。誰に教わったわけでもない。ただ何年も土を触ってきた手が、勝手にそう言っている。
この種の「感覚」って、ドキュメントに書けないんですよね。
マニュアルに載らないものが現場を回す
エンジニアとして長くやっていると、似たような場面に何度も出くわすんですよね。本番環境でなにか不穏な気配がする。ログにはまだ何も出ていない。でも「あ、これ来るな」と身体が構える。その直感は、過去に似たパターンを何十回も踏んだ蓄積から来ている。
職人さんが木の反りを手で読むのと、たぶん同じ構造です。親が子どもの泣き声のトーンで「これは本気のやつだ」と瞬時に判別するのも。どれも言語化しにくい。でも、実務の精度を決めているのは、記録に残るナレッジよりもこっちの層だったりする。
暗黙知を「遅れたもの」と扱う危うさ
最近の風潮として、なんでも数値化・可視化しようとする動きがあるじゃないですか。それ自体は悪くない。ただ、可視化できたものだけを「知識」と認定して、できなかったものを切り捨てる方向に進むと、現場は確実に薄くなる。
自分が若手と一緒に仕事をしていて感じるのは、手順書通りにやれる人は多いけれど、手順書から外れた瞬間に固まってしまうケースが増えていることです。手順書が悪いんじゃない。手順書の「行間」を埋める身体的な経験値が、そもそも積まれていないんですよね。
感覚は怠惰の産物でもある
ただ、ここで身体知を美化しすぎるのも違うと思っていて。感覚に頼りすぎると、自分のバイアスに気づけなくなる。「なんとなくこっちが正しい」が実は単なる慣れだった、ということは自分自身でも何度かやらかしている。
だから感覚と記録は対立するものじゃなくて、片方だけでは足りないという話なんですよね。土の湿り気を手で判断しつつ、水分計も横に置いておく。そのくらいの併用がちょうどいい。
手を動かした時間だけが残るもの
結局、身体知というのは近道がないんですよね。本を読んでも動画を見ても、自分の手で触った回数でしか育たない。それは庭仕事でも、味噌汁の出汁の加減でも、コードを書く手つきでも同じです。
記録に残らない感覚を信じすぎず、でも軽んじもせず。そのあたりの塩梅を、自分はあと何年かけて調整していくんだろうなと、土のついた手を洗いながらぼんやり考えていました。
→ プロフィール / 他チャネルを見る


コメント