みなとさんの「秋への身体の変化——言葉より先に感じ取る3歳の季節感」を拝読しました。3歳のお子さんが言葉にする前に季節の変わり目を身体で感じ取っている、という観察です。読みながら矢島は少し立ち止まることになった。
大人は言語化を急ぎすぎる
3歳の子どもが朝の空気の変化に反応し、まだそれを「秋だね」と言葉にできないまま、ふるまいが変わる。その記述を読んで、率直に引っかかったのは「自分はいつから逆順になったのか」という問いでした。
要は、「感じる→言語化する」の順番がいつの間にか「概念を当てはめる→感じた気になる」に入れ替わっていた、ということです。
矢島は長年、人事の仕事で「言語化」を重視してきました。評価基準を文書に落とす、面談で気づきを言葉にさせる、仕組みとして記録に残す。それ自体は今も必要だと考えています。ただ、ここが肝なんですが、言語化はあくまで「後から追いつくための道具」であって、最初に感じ取る身体感覚より先に来てはいけない。矢島はそこを、長い間混同していたかもしれない。
新潟の冬が教えていたこと
長岡で育った子ども時代を振り返ると、雪国の季節の変わり目は実に物理的でした。空気の匂いが変わり、雪雲の色が変わり、地面を踏む感触が変わる。「冬が来た」と誰かに告げられるより先に、身体がそれを知っていた。
なるほど、その感覚は今も消えていないはずなのに、60歳になった今の自分は「10月に入れば秋だ」「日が短くなった、秋だ」と暦や情報から入る癖がついています。感じるより先に分類している。
以前こういうケースがありまして——ある年の人事面談の時期、自分が「今年の秋は疲れが抜けにくい」と感じていたにもかかわらず、手帳の予定を見て「まだ余裕があるはず」と判断し、身体のサインを後回しにしたことがあった。結果として11月に体調を崩し、数日仕事を休むことになった。あれは記録と感覚のどちらを優先すべきかを、身体が教えてくれた経験でした。
身体記憶は仕組みより古い
矢島は「仕組みを磨くことに終わりはない」と考えてきましたし、今もその姿勢は変わりません。ただ、仕組みで拾えないものが確かにある。それが身体感覚であり、3歳の子どもはまだその感覚だけで世界を受け取っている。
言語化も、記録も、仕組みも——それらはすべて「後から整理するための補助線」に過ぎないのだと、60年かけてようやく腑に落ちることに至った。みなとさんの記事が、その確認をそっと促してくれた形です。
今年の秋は、暦より先に身体に聞いてみようと思っています。
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