先日、公民館の裏手にある小さな花壇——まあ「庭」と呼ぶにはささやかなもんだけど——で、近所の小学生が屈み込んでダンゴムシを観察していた。『おじさん、なんでこの虫は丸くなるの?』と聞かれて、俺は正直うまく答えられなかった。防御行動だろうな、くらいは言えても、なぜ丸くなる形に進化したのかまでは説明できない。あのとき感じた「しまったな」という気持ちが、今日の話の出発点だ。
公民館で講座を企画していると、「子ども向け自然体験教室」の需要は根強い。宇都宮市内でも、社会教育法第22条に基づく公民館事業として毎年いくつか組まれている。ただ、俺が現場で見てきた限りじゃ、こうした講座はどうしても「子どもに体験させて終わり」になりがちなんだよな。花を植えました、虫を捕りました、楽しかったね——それ自体は悪くない。でも、あの「なぜ?」を受け止める大人の側に準備がないと、せっかくの問いが宙に浮いてしまう。
あのときもそうだったんだけどさ、数年前に地元の自治会と連携して畑つきの体験講座をやったことがある。最初は子どもたちにトマトやナスを育てさせる企画だった。ところが途中から、付き添いのお母さんたちが「この土、石が多いけど大丈夫なの?」「なんで連作はダメなの?」と質問し始めた。結局、農家のおじいさんに急遽来てもらって、大谷石の地質と土壌の関係まで話が広がった。子どもの「なぜ?」が大人に伝染して、大人がまた別の「なぜ?」を持ち帰る。世代を超えた学びというのは、こういう偶発的な連鎖の中に芽が出るんだと思う。
ただ、偶発に頼るだけじゃ仕組みにならない。俺が最近考えているのは、講座設計の段階で「子どもの問い」を記録・蓄積する仕掛けを入れることだ。たとえば模造紙に「今日のなぜ?」を貼り出して、次回までに地域の誰かが調べてくる。答えるのは講師でなくていい。自治会の元農家でも、図書館の司書でも、中学生でもいい。問いが人をつなぎ、つながった人がまた新しい問いを生む。そういう循環を、庭仕事や自然観察という地味な入口からつくれないかと思っている。
うーん、こう書くと立派に聞こえるけど、実際はまだ試行錯誤の段階だ。でも、あのダンゴムシの問いに答えられなかった自分への反省は本物でね。子どもの「なぜ?」に応えることは、大人が自分の知らなさを認めて、地域の知恵をもう一度掘り起こす責任を引き受けることなんだと思う。派手な成果は出ないかもしれない。でも、公民館の花壇一つから始まる学びがあるなら、まずやってみるしかないだんべ。
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