手が先に「覚えている」
母が使っていた古い裁縫箱を開けるとき、特に何も考えていないのに手がすっと針山に伸びる。その動作を自分でも不思議に思うことがある。記憶というのは頭ではなくて、身体のどこかに、静かに貼りついているのかな、と。
アトリエで端切れをつなぎ合わせる作業をしていると、やがて手が動き出すのと同時に、いろんな人の顔が浮かんでくる。もう会えない人のことが多い。長年の友人だったデザイナーの先輩。若い頃に師事した染色家の先生。彼女たちが何かを教えてくれるとき、言葉よりも先に手が動いていた。「こうやってね」——その「こうやって」の中に、言語化できないすべてが詰まっていた。
実は、あの頃はあまり意識していなかった。教わった技法をそのまま使うというより、気づいたら似たような動きをしている。ずれた端を整えるときの指の角度、布の裏に手のひらを当てて「落ち感」を確認するときの感覚。それは誰かから受け取ったものだ、とある日ふいに気づく。継承って、こういう形でも起きるんだよね。
「思い出す」より「身体が連れ戻す」
庭仕事でも同じことが起きる、と聞いたことがある。亡くなった父親と一緒に球根を植えた記憶が、土を掘るたびに蘇る、という話。頭で思い出すんじゃなくて、身体が勝手に「あのとき」へ連れ戻す感覚、って言っていた。
それは悲しみとも違って、温度のある何か、としか言いようがない。
私自身は、古着のリメイク作業の途中でそういう瞬間に当たることがある。解体した古いジャケットの裏地に、前の持ち主の気配が残っていたりする。名前も知らない誰かの、でも確かに人が着ていた時間の痕跡。これを今の自分が手でほどいて、また別の形に仕立て直す。その過程が、なんというか、すごく静かで、重くて、でも温かい。
最終的に、できあがったものを見ると、そこには自分の手仕事と、知らない誰かの時間と、教えてくれた先輩の癖のような動きが、全部混ざっているんだよね。そういうものを「作品」と呼んでいいのかどうか、正直まだよくわからないでいる。
記録として残らない、でも身体の中に生き続けている——そういう継承の形が、案外いちばん長持ちするのかもしれないということ。言葉にならないまま、ずっと手の中にある。
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