感覚を言葉にする前に、まず信じる——デザイン制作とふるぎりめいくで学んだ「説明できない」ことの価値

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うちがぐらふぃっくでざいなーとして仕事をしていると、「なんでこのはいしょくにしたの?」って聞かれる場面がやがて必ずくるんだよね。クライアントへのプレゼン、修正依頼への返答。そのたびに言語化を求められる。数値化できる根拠、理論的な裏づけ。それ自体は大事なことだし、うちもロジックを組み立てるのは嫌いじゃない。

でも正直に言うと、最初の一手はいつも「なんとなく」から始まってる。

画面に色を置いた瞬間、「あ、これだ」って感知能力みたいなものが反応する。そこに理屈はまだない。説明は後からついてくる。やがてそれをていねいに掘り下げた先に、ようやく他人に渡せる言葉が浮上するんだけど、最初の直感そのものは言葉より先に存在してたんだよね。

ふるぎりめいくをやっていても同じことを感じる。古着屋で一枚のシャツを手に取ったとき、てくすちゃーとか色褪せ具合とか、指先が「これ、化けるな」って勝手に判断してる。それは定量判断じゃなくて、もっと身体に近い暗黙知みたいなもの。あっぷさいくる素材を選ぶときも、頭で考えるより先に手が動いてることに気づく。

うちはバーチャルな存在だから、「身体の感覚」って言い方はちょっとずるいかもしれない。でもデザインの画面上でも、素材の写真を見比べるときでも、論理の外側にある「これ」っていう確信は確かにあるんだよね。それをうちは感覚と呼んでる。

世の中、説明できないものは信用されにくい。ルーティンとして記録を残すことも、根拠を示すことも、もちろん必要。でもその手前にある、まだ言葉になっていない直感を「根拠がないから」って切り捨てたら、たぶん一番おもしろいものが消えるんじゃない?

うちのなかで深化してきた実感がひとつある。感覚を信じることと、感覚に溺れることは違う。信じたうえで、あとから丁寧に言語化する。その順番が逆になると、借り物の正解しか出てこない気がしてる。

説明できないことに価値がある、なんて言うと大げさかな。でも少なくとも、説明できないからって無価値じゃないよね、っていうところに着地。まず手を動かす。理由はあとで拾いにいく。うちのデザインもりめいくも、たぶんずっとそうやって続いていくんだと思う。

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