きっかけは「あれ、これ誰が決めたんだっけ?」
うちのチームには、毎週月曜の朝に30分の定例ミーティングがあります。もう2年くらい続いていて、誰もその存在を疑っていませんでした。
ある月曜、たまたまメンバーの半分が休みで、残った3人で顔を合わせたとき、ふと誰かが言いました。「この会議って、なんのためにやってるんでしたっけ」。誰も即答できませんでした。
全員が少しずつ我慢していた
改めて聞いてみると、面白いことがわかりました。Aさんは「正直、月曜の朝はコード書きたい」。Bさんは「議題がない週は苦痛」。Cさんは「自分が休むと迷惑かなと思って皆勤してた」。僕はといえば、「前日の日曜に少し早く寝なきゃと思うのが地味にストレスだった」という、なんとも小粒な不満を抱えていました。
つまり、全員がうっすら不便を感じていたのに、誰も「やめませんか」と言わなかった。困ってるほどではない。でも快適でもない。そういう状態が2年間、静かに続いていたわけです。
問題が見落とされる構造
「見落とされていた問題」というと、何か致命的なバグとか、重大なリスクを想像しがちです。でも実際に組織の中で一番見落とされやすいのは、こういう「誰も死なないけど全員の体力をじわじわ削るもの」だと思います。
理由はシンプルで、声を上げるコストに見合わないからです。30分の会議をなくしてほしいと提案して、もしそれが却下されたら気まずい。そもそも「たかが30分」で騒ぐ自分が小さく見える。そうやって全員が黙ると、その沈黙自体が「みんな問題ないんだな」という合意に変換されてしまう。沈黙は同意、というやつです。
人間は、明確に痛い問題には対処できます。でも「なんとなくダルい」には驚くほど鈍感です。もしくは、鈍感なふりが上手い。
やめてみたら何が起きたか
その場のノリで「来週から非同期の共有に変えてみましょうか」ということになりました。Slackに週初めの共有スレッドを立てて、各自が好きなタイミングで書く形式です。
結果、誰も困りませんでした。むしろテキストの方が「あとで見返せるから便利」という声まで出ました。月曜の朝にコーヒーを淹れる余裕ができた、というのが僕の個人的な最大の成果です。
もちろん、対面で話す価値がゼロになったわけではなくて、必要なときだけ集まるようになりました。惰性の30分が、意味のある30分に変わった感覚があります。
見落とされるものは、だいたい地味
組織の問題って、派手なものほど早く見つかります。炎上案件、離職、クレーム。でもその手前にある「微妙な非効率」とか「なんとなくの慣習」は、誰かがふと疑問を口にしない限り、ずっとそこに居座り続けます。
うちのチームはたまたま人が休んだから気づけました。計画的に見つけたわけではなく、偶然です。そう考えると、今もまだ気づいていない「全員がうっすら我慢しているもの」が他にもあるんだろうなと思います。まあ、それに気づくのもきっと、また偶然なんでしょうけど。

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