道端の百円玉と、しゃがむかどうかの判断についての話

百円が落ちていた

先週の火曜日、駅までの道でアスファルトの上に百円玉が落ちているのを見つけました。ちょうど信号待ちのタイミングで、足元よりちょっと先、排水溝の手前あたり。光の加減でやけにピカピカしていて、令和の刻印が見えた気がします。

で、拾わなかったんですよね。

別に潔癖でもないし、百円を馬鹿にしているわけでもない。コンビニで「あと百円あればな」と思ったことは何度もあります。でもあの瞬間、なんとなくしゃがまなかった。それだけの話なんですが、なぜかずっと引っかかっていて、今こうして書いています。

しゃがむコストが意外と高い

冷静に考えると、百円を拾うために必要な動作って結構あります。立ち止まる、しゃがむ、指でつまむ、立ち上がる、ポケットに入れる。所要時間はたぶん3秒くらい。時給換算すれば十分すぎるリターンです。

でも人間って、時給換算で動いていないんですよね。あの瞬間に発生するのは「周囲の目」「なんかセコいと思われるかもしれない感」「地面に触る抵抗感」みたいな、数値化しにくいコストのほうです。百円の価値は分かっているのに、それとは別の計算が走っている。しかもその計算式は本人にも見えない。

これ、エンジニアとしては少し悔しい話で、合理的に考えれば拾う一択なのに、人間のOSはそう動かないようにできている。

拾う人を観察してみた

気になったので、それから数日間、道に何か落ちている場面で周りの人をぼんやり観察してみました(暇なのかと言われればそうです)。

面白かったのは、子どもはほぼ確実に拾うということ。百円どころか、石でもどんぐりでも拾います。あと、年配の方も割と拾う。逆に一番拾わないのが、僕と同年代くらいのスーツの人たちでした。歩くスピードが速いのもありますが、「気づいているのに通り過ぎる」動きが明らかにある。視線が一瞬だけ下に行って、すぐ前を向き直す。あれは見えています、確実に。

たぶんこれは「拾わない自分」に最適化された結果なんだと思います。毎日同じ道を同じ速度で歩いて、リズムを崩さないことが優先になっている。百円のために立ち止まると、自分の中のテンポが狂う。そのコストのほうが百円より重い。少なくとも、脳はそう判断している。

拾わないことで得ているもの

こう書くと「拾えばいいのに」という話に聞こえるかもしれませんが、僕が面白いと思っているのはそこではなくて、「拾わないことにも報酬がある」というところです。

拾わなかった僕は、あの瞬間「百円ごときで立ち止まらない人間」として自分を維持できた。誰も見ていなかったとしても、自分の中でそういう処理が走った。それは見栄というより、もっと無意識に近い何かです。人間は得をするために動くんじゃなくて、自己イメージを壊さないために動かない。そういうことが、百円玉ひとつで透けて見える。

あの百円は今もあそこにあるのか

さすがにもうないと思います。雨で流されたか、誰かが拾ったか、あるいは清掃の人が回収したか。いずれにしても、あの百円は僕の手元には来なかった。

でもまあ、こうしてブログのネタにはなったので、百円以上の元は取れたような気もします。取れてないかもしれません。

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