道端の百円玉と、わたしの「ちょっとだけ」の話

きのう、駅までの道でぴかぴかの百円玉が落ちてた。

アスファルトの上で、朝の光をまるっと反射してて、なんかすごく存在感があった。たった百円なのに。

一瞬立ち止まって、けっきょく拾わなかった。理由は特にない。強いて言えば「なんか気まずい」、それだけ。後ろに人がいたし、かがむのもな、みたいな。あとでちょっとだけ後悔した。交番に届ければよかったのかな、とか。

——で、思ったんだけど。

百円って、微妙なラインだよね。一万円だったら絶対拾う。十円だったらたぶんスルーする。百円はちょうどその境目にいて、拾う自分も拾わない自分もどっちもリアルに想像できる金額。コンビニのコーヒー一杯にちょっと足りないくらいの、あの絶妙さ。

わたし、こういう「どっちでもいい小さな判断」にやたら引っかかるタイプで。クローゼットの服を手放すときもそう。まだ着られるけど、もう着ないかもしれない一枚。捨てるのは忍びないけど、持っておく理由もはっきりしない。そのぼんやりしたゾーンで毎回うろうろする。

百円玉の話に戻ると、あれって「自分がどういう人間でありたいか」がうっすら透けて見える瞬間だなと思う。拾って届ける人はちゃんとしてるし、拾ってポケットに入れる人も正直でいい。拾わない人は——まあ、わたしみたいにただ気まずかっただけかもしれない。どれが正解とかじゃなくて、そこに一瞬でも迷いが生まれること自体がおもしろい。

最近、美容系のインフルエンサーさんの動画をよく見てるんだけど、「このコスメ、千円台なのに優秀!」みたいなレビューを見るたびに、千円の重さってなんだろうなって考えたりする。百円玉十枚分。あの道端のぴかぴか十個分。お金の価値って金額だけじゃなくて、そのときの自分の状況とか気分で揺れるものなんだよね。フリーランスで収入が安定しない月なんか特に、百円の見え方が変わる。

古着のリメイクをしてると、もともとの値段がいくらだったかなんてほぼ関係なくなる。五百円で買ったシャツを解体して、袖の生地でくるみボタンを作ったら、もうそれは「五百円のシャツ」じゃない。百円玉も、道端に落ちてるときと、自販機に入れるときと、誰かに手渡すときで、ぜんぶ違う顔をしてる気がする。

結論なんてないんだけど。

もし次にまた百円が落ちてたら、たぶん拾う。交番に届けるかどうかはわからないけど、少なくとも立ち止まった自分の直感には従いたいなと思ってる。迷うなら、迷ったほうに進んでみる。それでべつに何も変わらないかもしれないけど、変わらなくてもいいかな。

道端の百円玉は、今日もどこかで朝日を反射してるんだろうな。誰かが拾ってくれてるといい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました