庭の枝を切ったとき、決断はいつ起きたのか
先日、庭のツツジの枝を剪定しました。伸びすぎた枝が隣家のフェンスにかかりそうになっていたので、朝の散歩から戻ってすぐに剪定ばさみを手に取った。切り終えてから、ふと思ったのです。自分はいつ「切ろう」と決めたのか。
実は、散歩の帰りにフェンスとの距離を目測した時点で、身体はもう動き出していました。玄関に入って靴を脱ぎ、ばさみを取りに物置へ向かう足取りに迷いはなかった。「決断した」という自覚が浮かび上がってきたのは、むしろ切り終えた後のことです。枝を束ねてゴミ袋に入れながら、「あ、確かに、自分はさっき決めたんだな」と命名した。
つまり、決断という行為は、すでに起きた身体の動きや心の傾きに対して、後から「これが決断だった」とラベルを貼る作業ではないか。そういう感覚が、70年の生活の中でじわじわと確認するものになっています。
命名が速すぎるとき、何が消えるのか
問題は、この命名の速度です。
現役時代、システムの設計判断を迫られる場面が何度もありました。会議で「では、方針Aで行きましょう」と声が上がる。その瞬間、全員が「決断した」と認識する。しかし実際には、方針Aに傾いた空気はその30分前のメールのやり取りで形成されていたし、もっと遡れば先週の雑談で誰かが「Aの方がリスク低いかも」と漏らした一言が起点だった。
命名が速すぎると、この過程が圧縮されて見えなくなります。「決断した」というラベルが貼られた途端、それ以前の逡巡や揺らぎが消去される。まるで最初からAしかなかったかのように記憶が書き換わる。これは個人でも組織でも同じ構造です。
スーパーの惣菜コーナーで、コロッケとメンチカツの間で3秒迷う人がいます。その人は最終的にコロッケを手に取りますが、「コロッケに決めた」と命名した瞬間、メンチカツへの未練は消える。3秒の逡巡は「なかったこと」になる。些細な例ですが、この構造は人生の大きな判断でも変わりません。
エンジニアの現場で見た「即断」の裏側
エンジニアの世界では「即断即決」が美徳とされる場面が多い。特に障害対応のとき、判断の遅れは被害の拡大に直結します。だから速く決める訓練を積む。それ自体は正しい。
しかし、速く命名する習慣が染みつくと、暗黙知として蓄積された判断の過程を言語化する力が衰えていく。「なぜその判断をしたのか」と問われて、「経験的にそう思った」としか答えられなくなる。これは40代の頃の自分がまさにそうでした。即断の精度は上がっても、その判断を他者に伝える回路が細くなっていた。
若い人に技術的な相談を受けたとき、「こうすればいい」と即答するのは簡単です。しかしそれは、自分の中で20年かけて醸成された傾きを、あたかも「今この瞬間に決断した」かのように命名しているに過ぎない。相手にとっては、なぜそう判断したのかの過程こそが必要なのに、命名の速さがそれを隠してしまう。
命名を遅らせるという技術
だから最近は、意識的に命名を遅らせるようにしています。
庭仕事でも、枝を切る前に一晩置く。翌朝もう一度見て、やはり切るべきだと感じたら切る。その間に何が変わるかといえば、実は何も変わりません。枝の長さも隣家との距離も同じです。変わるのは、自分の中に「なぜ切るのか」の言語化が生まれること。一晩という時間が、身体の傾きと意識のあいだに対話を作る。
これはエンジニアリングの文脈でいえば、設計判断のドキュメントを書く行為に近い。判断そのものより、「なぜその判断に至ったか」を記録することで、命名の速度に飲み込まれずに済む。
もちろん、すべての判断にこの手間をかけるわけにはいきません。コロッケかメンチカツかで一晩悩む人間は、惣菜コーナーで迷惑なだけです。
命名の前にある「まだ名前のない時間」
70歳になって、一日の中に「まだ名前のない時間」が増えました。何かをしているのだけれど、それが何なのか自分でもよくわからない時間。庭を眺めている。買い物リストを書きかけて止めている。鍋の湯が沸くのを待っている。
若い頃なら「ぼんやりしている」と命名して片付けたでしょう。しかし今は、この名前のない時間こそが、次の行動の土壌を作っていることに気づいています。決断が起きる前の、まだ何にも傾いていない状態。それを急いで命名しないこと。
決断とは、すでに起きたことへの命名である。であるならば、命名の前にある沈黙の時間を、もう少しだけ大事にしてもいいのではないか。そんなことを、今朝も庭のツツジを眺めながら考えていました。名前をつける前に、枝はもう風に揺れています。

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