庭の草を抜くとき、考えていない
春先から初夏にかけて、小さな庭の手入れをします。雑草が目につくと、しゃがんで抜く。このとき、どの草を抜いてどの芽を残すか、私はほとんど考えていないことに気づきました。
手が勝手に動いているんですね。
根の張り方、葉の形、土の湿り具合。それらを総合して「これは抜く、これは残す」と身体が判断している。言語化しようとすると途端にもたつく。でも手は迷わない。70年も生きていると、こういう「言葉にならない判断」が身体のあちこちに蓄積されていることに気づきます。
そしてこれは、庭仕事に限った話ではなかったんですね。
設計レビューで感じた「嫌な予感」の正体
現役時代、システム設計のレビューをしていた時期があります。30代後半から40代にかけてのことです。ドキュメントを読み、構成図を眺め、担当者の説明を聞く。論理的には筋が通っている。要件も満たしている。でも、ときどき胸のあたりがざわつく案件がありました。
「これ、たぶん半年後に困りますよ」
根拠を問われると、うまく言えない。「なんとなく」としか答えられない。でも、その「なんとなく」は、だいたい当たりました。的中率でいえば7割を超えていたと思います。
後から振り返ると、過去に似た構成で運用が破綻した経験があったり、担当者の説明の中に微妙な言いよどみがあったりした。身体がそれを拾って、言葉より先に警告を出していたんですね。
経験は「知識」ではなく「身体の反応速度」になる
エンジニアの世界では、経験年数がものを言うという話と、経験年数は関係ないという話の両方が語られます。私の実感としては、どちらも正しくて、どちらも不正確です。
正確に言えば、経験が「知識」として蓄積されるだけでは足りない。身体の反応として染みついて初めて使い物になる。料理でいえば、レシピを100個暗記している人より、火加減を手の甲の温度で判断できる人の方が強い。それと同じことです。
私が現役時代に見てきた優秀なエンジニアたちは、例外なくこの「身体知」を持っていました。コードを見た瞬間に「ここ、おかしい」と感じる。ログを流し読みして異常に気づく。それは才能というより、膨大な試行錯誤が身体に刻まれた結果です。
言葉にできないものを、言葉にしようとする矛盾
厄介なのは、組織というものが「言葉にできる判断」しか受け入れないことです。
「なんとなく嫌な予感がします」では、会議の議事録に残せない。だから私は現役時代、この身体的な違和感を後づけで言語化する作業に相当な時間を費やしました。直感が先にあって、論理は後からついてくる。順序が逆なんですね。
でも、それでいいのだと今は思っています。判断の精度を上げるのは身体の蓄積であって、言語化はあくまで他者への翻訳作業です。翻訳が先に来ることはない。
若い人に「もっとロジカルに考えろ」と言う先輩を見ると、少し複雑な気持ちになります。ロジカルであることは大事です。でも、本当に鋭い判断は、たいてい身体が先に出しているものです。
庭に戻る
今朝も庭に出て、少し草を抜きました。膝が痛いので長くはできません。10分ほどで切り上げて、手を洗って、コーヒーを淹れる。
あの草を抜くときの手の感覚と、設計レビューで感じていた胸のざわつきは、たぶん同じ回路を使っています。言葉にならない判断。身体が覚えている経験の総体。それが、私のエンジニア人生で一番頼りになったものでした。
引退して数年経ちますが、この回路は庭仕事や自炊の中で今も静かに動いています。使い道が変わっただけで、身体はちゃんと覚えている。それはなかなか、悪くない老後だと思っています。
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