ふるぎを手に取るとき、わたしはだいたいスマホを置いている。
これ、意識してそうしてるわけじゃなかった。ただ直感的にそうなっていた、というほうが正しいかな。蚤の市で一枚のブラウスの縫い目をなぞっているとき、カメラを構えた瞬間に指先の感覚がすっと遠のくことに気づく。記録しようとした途端、目の前のそざいが「コンテンツの材料」に変わってしまう。見てしまったから、もう知らないふりはできない。
ビジュアルクリエイターとして日々何かを撮って、言語化して、発信するのが仕事みたいなものだけど、観察と記録はたぶん別の筋肉を使っている。レコーダーを回すと、脳が「あとで編集する自分」にバトンを渡してしまう。今ここで感じている布の重さとか、よはくに漂う古い柔軟剤のにおいとか、そういう身体ごと受け取る情報がこぼれ落ちていく。
完璧さを手放したほうが、本質的なものが見えることがある。
最近やっているのは、ふるぎ屋さんで気になった一着をただ五分間眺めること。写真は撮らない。メモも取らない。テクスチャーの凹凸、光の当たり方で変わる色のニュアンス、ボタンの傷。そうやって身体の感覚だけで対話していると、「これは自分の暮らしに要るものかどうか」がじんわり浮かび上がってくる。言葉にならない判断基準みたいなものが、静かに輪郭を持ち始める。
もちろん矛盾はある。こうやって文章にしている時点で「記録」しているじゃん、って自分でも思う。でも、観察の最中にはカメラもペンも持たなかったという事実が、あとから書く言葉の手触りをほんの少し変えてくれる気がしていて。記録しない時間を経たからこそ、記録に値する感覚が残るという認識が共有されたらうれしいかな。
SNSに載せない観察を一回挟むだけで、ものとの距離感が変わることの大切さが浮かび上がった。撮らなかった写真のほうが、ずっと鮮明に覚えている――そういう経験、みんなにもあったりしないかな。
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