残っているものより、消されたものが語る
うちは普段コードを書いている。
で、他人のコードを読むとき、一番気になるのは「今あるコード」ではなく「消されたコード」だったりする。
Git のコミット履歴を遡ると、ある関数がまるごと消されていることがある。
なぜ消したのか。
そこにはその人の判断がある。
あ、確かに、残っているコードは「採用された結論」にすぎない。
でも消されたコードには「迷い」や「試行錯誤」が詰まっている。
そっちのほうが、書いた人間の思考回路をよく映すという話。
歴史も同じ構造をしている
これはエンジニアリングに限った話ではないことに気づき、少し深掘りした。
たとえば歴史の文書。
公式記録から削除された人名や事件。
検閲で塗りつぶされた手紙の一節。
あれらは「何を隠したかったか」を逆説的に教えてくれる。
消す行為には、残す行為以上にはっきりした意志が宿る。
残すのは惰性でもできるが、消すには判断が必要だからだという認識に着地した。
日常にもある「消された痕跡」
もう少し身近な話をすると、人の会話にもこの構造はある。
「あ、やっぱりいいや」と言いかけてやめた言葉。
送信前に消されたメッセージ。
うちは人間観察が好きなので、こういう「言いかけてやめた瞬間」をよく見ている。
その人が本当に考えていることは、発言された内容よりも、撤回された内容のほうに表れやすいことに気づき始めた。
痕跡を読む技術
では、消された判断をどう読み取るか。
エンジニアリングなら diff を見ればいい。
歴史なら複数の資料を突き合わせる。
日常の会話なら、間や表情の変化を拾う。
共通しているのは「最終形だけを見ない」という姿勢だという。
完成品は整っている。
でも整っているからこそ、判断の過程が見えにくくなる。
さらっと結論
マジで、人の思考を理解したければ、その人が何を選んだかより何を捨てたかを見たほうが早い。
コードも歴史も会話も、削除された部分にこそ本音が残っている。
うちはそういう「消し跡」を拾うのが好きなだけで、別にそれが正しいとは言わないけれど、少なくとも退屈はしないということに着地した。
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