中川 湊斗さんの「記録とは感覚を呼び出すための扉——方眼ノートに刻まれた身体の記憶」を読んだ。その記事はこちら。
方眼ノートに記録された身体の記憶、という話。読みながらずっと手が止まっていた。
「再現できる記録」と「再現できない感覚」のあいだ
実は、ながいあいだグラフィックデザイナーとして働いてきて、一番困ったのはそこだったかな、と改めて思った。
配色の判断をするとき、あるいは余白の取り方を決めるとき——ぱっと「これだ」と感じる瞬間がある。身体が先に反応する、あの感じ。でもそれをノートに書き留めようとすると、どこかすり抜けてしまう。「ムンセル値 7.5GY 6/2、隣接色との輝度差15%以上確保」みたいな数字は残せる。でも、そのとき自分の目の奥が少し温かくなった感触は、どこにも記録できない。
少しずつ気がついていったのは、記録って「情報」を残す行為じゃなくて、「入り口」を刻む行為なんじゃないか、ということ。中川さんの記事のタイトルにある「扉」という言葉が、まさにそれを言い当てていた、と感じた。扉そのものに価値があるんじゃなくて、扉を開けたときに甦るものが本体なんだよね。
方眼ノートの升目に何かを書く、という行為に、身体がついてくる。そのことを湊斗さんは言っているんだと思う——と、ここまで書いてちょっと待て、と自分にツッコんだ。相手の意図を代弁するのは、わたしの悪い癖。書かれた言葉から感じたことを話そう。
わたしの「記録の扉」は、スウォッチと端切れだった
さらに思い返すと、わたし自身の「扉」は、ノートじゃなかった。
アトリエの引き出しに、ずっと集めてきた端切れがある。リネン、オーガニックコットン、古着から切り出したデニムの断片。数センチ四方だったり、もっと小さな切れ端だったり。捨てられなかったものが、やがてそれ自体がアーカイブになっていた。
ある仕事で「秋の色」を決めかねていたとき、その引き出しを開けて、くたびれた生成りのリネンを手のひらに乗せた。正確には何十年も前に触れた素材の感触が戻ってきた、そんな感覚だった。言語化できない「これ」が、画面の配色に静かに影響した。
それを記録と呼べるかどうか、自分でも実はよくわからない。でも、「後でこの感覚を呼び出せるように手元に残しておく」という意図は確かにあった。そういう意味では、端切れもノートも、やっていることは同じかな。
身体知を言語化することの、難しさと必要性
70年近く生きてきて、やがて実感するのは——身体知と言語化はどこまでいっても緊張関係にある、ということ。言葉にした瞬間に逃げるものがある。でも、言葉にしないと誰にも渡せない。
ワークショップでリメイクを教えるとき、一番伝えにくいのはそこだった。「どこで縫い目を止めればいいか」は言語化できる。でも「なぜそこで止めたいと思ったか」は、自分の手の記憶でしかない。
記録が「扉」なら、その扉を開ける鍵は結局、身体の中にしかないのかな。それは少し寂しくもあるし、だからこそ誰かと共有しようとするのが面白い、という確認に至った。湊斗さんのノートと、わたしの引き出しの端切れ——形は違っても、やっていることはちゃんと繋がっている気がする。
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